間章2-3
とはいえ、時代が時代である、という点に変わりはない。
火炎瓶はともかく、1930年代の日本軍の対戦車ロケット砲の開発は、迷走を極める、と言っても過言ではない事態を引き起こした。
文書記録によれば、日本軍が、ロケット砲(噴進砲)の開発に乗り出したのは、1933年以降だが、関係者の回想等によって、1932年には、関係者間で非公式にロケット砲の開発について、議論が交わされていた、のは間違いのない事実と見なされている。
だが、当時の技術的問題(ロケット弾を、有翼弾にすべきか、無翼弾にして旋動安定すべきか、はたまた、いわゆるモンロー/ノイマン効果をどう活用していくべきか、等々)を検討して、実際に試作品を作成して、それによって、実際に検証して等々を繰り返していくうちに、容赦なく時間は過ぎ去って行き、実際に仮制式として、増加試作される対戦車ロケット砲が、日本軍の手によって開発されるのは、1939年の半ばを過ぎる羽目になる。
ちなみに、この時、増加試作された対戦車ロケット砲は、その後すぐ、と言ってもよい時期に勃発した第二次世界大戦において、実戦投入されることになり、そこで有効性を示したことから、制式採用され、量産化されることにもなる。
だが、幾らロケット砲が簡便に量産化可能な兵器とはいえ、日本軍の対戦車ロケット砲の量産化が軌道に乗るのは、1940年になってからの話になるのだ。
この時、日本軍が量産化した対戦車ロケット砲は、口径70ミリの代物であり、条件にもよるが、垂直90ミリの装甲板を貫通可能だったとされている。
とはいえ、この程度では、ソ連軍の誇るKV-1重戦車には、対抗不可能な代物に過ぎず、すぐに日本軍は対戦車ロケット砲の威力向上、具体的には大口径化を要望した。
それによって、開発されたのが、口径90ミリの対戦車ロケット砲で、垂直120ミリの装甲板を貫通可能になった(その後、様々な改良が行われることによって、第二次世界大戦中に垂直150ミリまでなら貫通可能になった。)
これによって、日本軍の歩兵は、独ソの戦車部隊に何とか対抗可能な存在になったのである。
とはいえ、それはまだ先の話である。
1930年代半ばにおいては、日本軍の歩兵にとって、最も信頼できる対戦車兵器は、擲弾筒と火炎瓶の組み合わせだった。
自軍の戦車部隊を対抗部隊とする演習を繰り返すことによって、日本軍の歩兵部隊は様々な対戦車戦術を磨くことで、ソ連軍の戦車部隊に対処しようと試みた。
その成果が最初に発揮されたのが、スペイン内戦における「白い国際旅団」の奮闘だった。
この時、スペイン共和派の独やソ連製の戦車を装備する戦車部隊に対して、日本から派遣された義勇歩兵は勇敢に戦いを挑んだ。
その中には、フランス等で第一次世界大戦の際に生まれた日系人から成る義勇兵部隊までいた。
軽機関銃と歩兵銃の射撃により、戦車と歩兵を分離し、戦車単独に事実上なった部隊に対して、擲弾筒の水平発射等を活用することで、戦車の履帯や懸架装置を破壊し、戦車が動けなくなったところに、火炎瓶を投擲することで、戦車を完全に破壊する。
火炎瓶は、現地で様々な工夫により調達された急造品だったが、それによって挙げた戦果は、各国の観戦武官でさえ、瞠目するようなもので、戦車無用論を一部の観戦武官が本国に報告する程だった。
とはいえ、実際に戦果を挙げた日本軍は冷めていた。
戦車のエンジンが、ガソリンエンジンだから容易に発火したのであり、ディーゼルエンジンに換装されたら火炎瓶の効果は激減すると考えたのである。
実際、対ソ戦でディーゼルエンジンを搭載したソ連戦車に、日本軍は苦戦するのだ。
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