第6章ー22
そういった大変な状況下に、1938年6月の日本はあったが、実務は常に動かしていかねばならない。
梅津美治郎陸相は、徐州作戦が完了し、日満連合軍が守勢に転じたという戦況の変化に鑑み、華北方面軍と華中方面軍を再編して、中国派遣軍を編制した。
そして、日本初の機甲軍団を率い、偉功を挙げた岡村寧次中将をその総司令官に抜擢した。
また、その中国派遣軍参謀長に、今村均中将を充てるという人事を発令した。
(この裏には、梅津陸相の深謀遠慮があった。
梅津陸相は、年齢や陸士卒業時機からいうと、まだまだ若年で、陸相に大抜擢されたといっても過言ではなかった。
そういったことから、陸軍本体について、自分より先任に当たる大将級を、軍司令官等の実務から外し、軍事参議官等の閑職に補することで、陸軍内の統制を執ろうと梅津陸相はしたのである。)
中国派遣軍の最初の仕事は、黄河堤防破壊の後始末だった。
岡村中将と今村中将は、率先して、中国の人民救援に乗り出した。
勿論、部下の中には、不満を持つ者が続出した。
幾ら、日中友好のため、という大義名分があっても、そもそも共産中国政府による自作自演の謀略の後始末というか、尻拭いを中国派遣軍はする羽目になったのである。
ふざけた話にも程がある、というのが、大半の部下の反応だった。
だが、岡村中将や今村中将は、自らそういった部下を集めて訓示を行ったり、面談を行ったりすることで、不満の解消に努めた。
そうしないと、満州国、蒋介石政権が、中国本土に安定した地盤を築けないのが明らかだったからである。
中国派遣軍を中心とする日満連合にとって、江蘇省等の沿岸部を安定した蒋介石政権の支持基盤にすることは、喫緊の課題だったのだ。
それによって、蒋介石政権の支持基盤を広めていき、やがては中国本土を蒋介石政権によって統一する。
この当時の日本にとって、それが最善の路だと考えられていた。
最終的に、岡村中将は、黄河堤防破壊を修復するため、少ない兵力を満州国軍と共闘して、やり繰りすることで、限定攻勢を行い、黄河堤防破壊地点を日満連合軍の手に確保し、一部の兵を土木作業員等に転用するという非常手段まで使うことで、黄河の堤防修復に成功している。
だが、それが完了するのは、第二次世界大戦が勃発した後の話であり、それまでは対症療法に、中国派遣軍を中心とする日満連合軍は努めざるを得なかった。
かといって、現場に負担をかけられすぎても堪らない。
中国派遣軍は、東京の参謀本部等に対して、住民救助のための物資等の援助を懸命に訴えた。
米内光政首相等、日本政府の最上層部は、それに理解を示したが、そうない袖は振れない、というのも現実の話だった。
必然的に、友好関係にある米韓等に、日本政府は援助を訴えた。
ちなみに、満州国に対しては、同胞である以上、当然のこととして、援助を日本政府は要求している。
だが、満州国政府というか、蒋介石の腰は重かった。
「正直に言って、共産中国政府との戦争のために、国庫は破綻寸前です。そういった状況にある中、黄河下流域の住民救助のためのお金を出す等の余裕は、全くありません」
満州国に特使として派遣された吉田茂外相に対して、蒋介石自身が面談に応じたが、蒋介石の態度は、丁寧なものの思い切り要約すれば、上記のような態度だった。
吉田外相自身が、傲岸不遜を絵にかいたような人柄だったが、この時の蒋介石の態度は、腹に据えかねるものだ、と周囲に毒づいた記録が残っているくらいである。
とはいえ、住民救助等に全くお金等を出さないと、蒋介石自身、住民からの非難の矛先が向くのは分かっている。
結局は、蒋介石もお金等を出すことは出した。
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