第6章ー19
岸総司少尉自ら、西住小次郎中尉を、半ば野戦病院に担ぎ込む羽目になった。
「西南戦争の借りは返したぞ」
と西住中尉は、重傷を負った身で、ベッドに横たわりながら、軽口を叩いた。
「借りは、確かに返していただきました」
岸少尉は、苦笑いをしながら、敬礼して、西住中尉に敬意を表した。
第1機甲師団は、熊本の第6師団を改編して編成されたものだった。
ちなみに、第2機甲師団は、仙台の第2師団、第3機甲師団は、金沢の第9師団、をそれぞれ改編して編成されている。
第1と第2が、逆ではないか、という疑問が出そうなので、補足説明すると、中国に派兵する際に、少しでも近い部隊を、ということから、第6師団が先に機甲師団に改編されることになったのだった。
そして、熊本の第6師団は、熊本鎮台に淵源を持つ。
更に言うのなら、西南戦争の際の熊本城攻防戦に際して、熊本城救援作戦で一番乗りを果たしたのは、陸軍ではなく海兵隊だった。
西住中尉自身が、熊本出身であり、西南戦争では、海兵隊に助けてもらったが、今度の中国内戦では、海兵隊を熊本の部隊が一番乗りで救援した、と西住中尉は言い、岸少尉は苦笑いをして敬礼したのだった。
そう言ったやり取りを、西住中尉と岸少尉がしている頃、それより上層部の南雲忠一少将ら、第3海兵師団司令部の面々等は、ほっと一息をついていた。
日本機甲軍団への空中補給は、綱渡り極まりない作戦だったのを、上層部の彼らは知っていたからである。
華北方面軍の全ての爆撃機が、この空中補給任務に投入され、それだけでは足りない、として、日本からも爆撃機部隊が投入される有様だった。
機甲軍団に供給する予定の物資は、北京、天津等にまでは、日満連合軍等の手によって運び込まれているが、問題は、その先だった。
その先の道路や鉄道は、黄河の大洪水によって、寸断されているのだ。
従って、北京や天津近郊の飛行場から、爆撃機部隊が物資を満載して出撃し、黄河以南にいる機甲軍団に対して、物資を空中投下するしか、機甲軍団への補給の方法は無かった。
とはいえ、物資を空中投下する以上、地上を鉄道や自動車で運ぶのと比較して、物資の損失が多発するのは避けられない。
増して、これは非常手段として、陸軍参謀本部や華北方面軍が採用した作戦であり、事前準備も十分とは言い難いものだった。
そのため、この空からの補給作戦に使用された航空機や人材の損耗も、少々では収まらなかった。
この作戦は、大西瀧治郎大佐等、第一次世界大戦の実戦経験者までが見るに見かねて、自ら操縦桿を握っての出撃を志願したという伝説(実際に大西大佐は、この任務に従事しており、物資投下を行っている)が遺された作戦となった。
だが、この作戦を断行した甲斐は十二分にあった、と言えた。
日本の機甲軍団が、華中方面軍の戦線にたどり着き、陸路からの効率的な補給を受けられるようになったことから、徐州方面に展開していた共産中国軍の脱出は、不可能に近いものになったからである。
華中方面軍を介した大量の物資を受け取った機甲軍団は、充分な行動が可能になり、文字通り、東奔西走して、共産中国軍の攻勢を迎撃して打ち破ることで、共産中国軍の鋭鋒を完全に挫いた。
こういった状況から、共産中国側は、徐州方面に展開していた部隊の脱出を事実上断念し、これらの部隊に対して、部隊を名目上は解散した上で、住民に紛れ込んでの遊撃戦を展開することを命じた。
日満連合軍にしてみれば、住民なのか、住民に偽装した共産中国軍の兵士なのか、容易には分からない。
かといって、日満連合軍は、住民を無差別に攻撃することはできない。
日満連合軍は苦悩して戦うことになった。
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