第6章ー13
最初にその兆候に気付いたのは、皮肉なことに、東京の参謀本部だった。
言うまでもないことだが、前線から離れたところに参謀本部はある。
華北方面軍、華中方面軍からの情報に加え、それ以外の様々な情報を(中には、モンゴルに潜入している、モンゴル民族の独立運動家達からの情報提供もあった。)比較検討する内に、徐州方面に展開している共産中国軍の反撃の兆候を掴むことに成功したという訳だった。
陸軍参謀本部を実質的に握っている小畑敏四郎中将は、海兵隊担当の軍令部次長、多田駿中将に、徐州方面に展開している共産中国軍の反撃の兆候を連絡すると共に、華北方面軍、華中方面軍に警報を出した。
だが、その警報は、まだまだ曖昧なレベルである。
陸軍参謀本部や海軍軍令部は、更なる情報を後方から掴もうとし、華北方面軍や華中方面軍は、航空偵察等で、実際の兆候を更に掴もうと四苦八苦することになった。
当時、徐州方面に展開していた共産中国軍、約100万人余りは、全てが日満連合軍と、直接、対峙していた訳ではなかった。
共産中国軍と言えど、領内の治安維持に、ある程度の部隊を展開しておく必要があった。
そして、当然、予備部隊を拘置する必要性を(独ソの軍事顧問団の助言もあり、)、共産中国軍上層部も理解していた。
また、地元の民衆を集めた民兵隊が、地元から動きたがる訳が無かった。
(これまでの悪政から、反政府運動が活発化するのを、共産中国政府は警戒せざるを得なかった。
だが、皮肉なことに、蒋介石率いる満州国政府が、日米韓と手を組んでいることから、これまでの反日米韓感情によって、反政府運動は、売国奴、非国民のやることだとして、中国民衆レベルでは、中々広まらなかった。
中国内戦再開から第二次世界大戦の流れの中で、蒋介石や日米韓等は、このために支持基盤が中国民衆レベルで、中々広まらず、悪戦苦闘する羽目になる。)
徐州作戦開始時、徐州方面に展開していた共産中国軍は、およそ100万人、内40万人が最前線を支えており、内30万人が民兵隊として、各所に展開して、治安維持任務等に当たっており、残りの30万人が予備部隊として、日満連合軍の攻勢に対処できるように徐州近辺に展開していたというのが、第二次世界大戦後の調査による通説である。
とはいえ、実際には、日満連合軍による、地上部隊の機動力を存分に発揮した攻勢と、航空優勢を生かした航空攻撃によって、30万人程の予備部隊は、作戦開始当初は、効果的な行動が出来ていなかった。
しかし、日満連合軍の快進撃は、このままいくと100万人もの兵力が包囲殲滅されるという恐怖感を共産中国軍に生み出したことから、予備部隊を動かすことが決断された。
そして、その決断は、非情極まりない作戦を生み出すものだった。
黄河の堤防を大爆破することで、黄河の流れを変え、徐州方面を大洪水に襲わせることで、自動車化が進んでいる日満連合軍の行動を阻害して、機動力を止める。
そして、動けなくなった日満連合軍の内、兵力の少ない華中方面軍(つまり、海兵隊が主力)に予備部隊をぶつけ、これによって、徐州方面に展開している共産中国軍を脱出させようという作戦である。
この作戦の内容が内容だけに、共産中国軍内部でも機密は最大限の保持が努められた。
実際、共産中国軍の当時の最高幹部を務めていた彭徳懐将軍でさえ、徐州方面で反攻作戦が展開されるということしか、当時は知らされない有様だった。
(そのため、作戦終了後に、彭将軍は驚愕し、これまでの経緯もあって、共産中国政府上層部と距離を置くことになる。)
予備部隊の移動は、基本的に夜間、それもできる限りの分散が求められた。
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