第6章ー2
場面が変わり、岸総司と篠田千恵子の姉弟の会話になります。
そんな会話が、土方伯爵邸で交わされていた頃、料亭「北白川」では、篠田千恵子と岸総司が会っていた。
二人のそれぞれの実母が犬猿の仲である以上、お互いの実母がいる自宅では会わないのが、二人の通例になっている。
そう人目に立たず、個室がある「北白川」は、二人が会うのに絶好だった。
岸総司は、4月1日付けで、第3海兵師団の小隊長として、出征が決まっている。
前任者が、南京への総攻撃の際に戦死し、その補充として送られることになったのだ。
「無事に帰ってきてね。私の結婚式には、出席してね」
千恵子は、総司を心配しながら言った。
「生きて帰って、姉さんの結婚式には出席するよ」
総司は、朗らかに笑った。
「お父さんのように帰ってこないのか、姉さんが心配するのはわかるけどね」
「だって、戦死公報が届くようになり出して、実際に知人の知人レベルに及ぶようになっているから」
千恵子は、心配でたまらないようだった。
総司は思った。
自分は、千恵子を本心では姉ではなく、恋人なり、妻なりのように見ているのではないか。
義兄になる予定の土方勇に、二人きりの際に言われたことがある。
自分は笑ったが、改めて自分の心を見つめると、そうなのかもしれない。
母や自分が汚名を被っても、姉が幸せになればいい、と考えた時点で、それを自覚した。
だが、千恵子と自分は、生まれ落ちた時から姉弟で、最初から引き裂かれた運命なのだ。
それなら、千恵子の幸せのために、自分は尽力すべきだ。
母が略奪愛で父と結婚した、千恵子が本来は嫡出子だから問題ない、という理屈で、勇と千恵子が結婚できるのなら、それでいいではないか。
「勇と別れないでくれ。あれ程の男は、そうはいないから」
「分かっている。母のようなしくじりはしないから」
母ね、千恵子は思わず言ったのだろうが、何とも皮肉な話だ。
自分から見れば、千恵子の母のしくじりが、こんな事態を招いている。
千恵子の母、篠田りつは、そもそも二人の実父の事実上の婚約者だった。
だが、千恵子の話によると、りつは、総司や千恵子の父が海軍兵学校の生徒だった頃、父からの手紙への返事を3回に1回くらいしか書かず、婚約破棄される1年前からの1年間となると、2回程しか逢わなかったとのことだった。
りつは、当時は色々と忙しくて仕方なかったの、と言い訳しているが、千恵子でさえ、そんなことをしていたら、別れたいのだ、と父に誤解され、婚約破棄されて当たり前、と言う有様だった。
最も篠田りつと婚約破棄する前に、岸忠子と婚約する父もどうか、という話ではある。
とはいえ、父にしてみれば、正式な婚約ではないし、りつが自分と別れたいなら、渡りに船といった感覚だったのだろう。
それにしても、父が生きて帰国していたら、どうしていたろう。
りつと忠子の争いに疲れ果て、父は、別の女性のところに奔ったのではないだろうか。
総司はそう思うし、千恵子もそんなことを総司に言ったことがある。
りつは、今でも、自分が本来はあの人と結婚する筈だったの、あの人への愛を貫きたい、と言い続け、独身を守っている。
ある意味、忠子も、りつも、いい勝負の似た者同士だった。
「ともかく、上官や部下の話をよく聞いて、生きて帰るよ。姉さんの幸せを見ないといけないし、自分もいい相手を見つけたいしね」
「そうね。東京女子高等師範学校の同級生等に声を掛けてみるわ。あなたの結婚相手に、と思い当たる女性は何人かいるから」
姉弟は、暫く会話した後で「北白川」を出た。
そして、数日後、千恵子は、弟の出征を陰から見送った。
実の姉とはいえ、岸家から白眼視されている以上、千恵子は、岸家と共に弟の出征を見送る訳にはいかなかったのだ。
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