プロローグー6
「共産中国の件はともかくとして、仏としては、現在、国内外の問題が山積しているからな。仏代表監督が、いろいろと心配するのも無理ない話だ」
話を切り替えようとしたのだろう、石川信吾大佐は呟くように言った。
その言葉については、土方歳一中佐も肯かざるを得なかった。
最も、その責任の一端は、日本にあるのが皮肉な話だった。
1937年5月現在、仏は国内外の嵐に翻弄されていた。
世界大恐慌によってもたらされた仏国内の不景気は、仏国内世論の全般的な過激化を招いており、仏国内で左右両派の対立を引き起こしていた。
これに対し、仏政府は、英を見習い、植民地と一体化したブロック経済で、この不景気から脱出し、それによって世論を穏健化させようと図ってはいたが、この政策は持たざる国、独伊の世論から猛反発を買っていた。
それに、そもそも仏政府自体が、左右両派の対立から、不安定極まりない状況にあった。
更に、それに追い打ちをかける存在まであった。
いうまでもなく、スペイン内戦である。
1936年夏に勃発したスペイン内戦は、国民派(右派)を伊(英日)等が、共和派(左派)をソ(独)等が後押しすることで、事実上は世界を巻き込む戦争になっていた。
1936年12月から1937年1月にかけて、国民派がスペイン北部戦線において行った大攻勢(それには、英日の義勇兵名目の正規兵が多数関与していたが)で勝利を収めた結果、スペイン内戦における国民派の勝利は、ほぼ確実といえる状況になった。
そして、共和派に味方していたバスク民族派は、バスク民族の自治を受け入れることと引き換えに、国民派との単独講和を受け入れることになり、また、共和派の難民が、陸続きのフランスに数十万人単位で溢れる事態が引き起こされた。
バスク民族は、スペイン、仏にまたがって住む民族である。
スペイン国民派が、バスク民族の自治を認めたことは、仏国内のバスク民族の間に、自治運動を活発化させる要因となった。
更に、共和派難民への対応を巡って、仏国内の世論は、揉めに揉めることになった。
左派の共産党等は、人道的観点から、共和派難民の保護を訴えた。
一方、右派や中道派は、ある程度は一時的には難民を受け入れるものの、速やかにスペインへの共和派難民の送還を訴えた。
たかが難民というなかれ、数十万人単位の人間の衣食住等々を確保しようとすると、それなりの費用等が掛かるのであり、それは世界大恐慌に苦しむ仏にとって、耐え難い負担である。
右派や中道派が、冷たいと言われようと、共和派難民について、スペインへの送還を主張するのも無理がない話であった。
そして、こういった問題によって、仏の人民戦線政府は、崩壊しつつあった。
だが、この裏で、日本政府の一部が暗躍していたのも事実だった。
仏の人民戦線政府は、容共的存在であり、共産中国やソ連との関係から、反共主義を取る日本政府の一部の幹部にとって、見過ごせない存在だった。
そして、仏の人民政府打倒のために、バスク民族主義を煽り、共和派難民が仏に流れ込むように、彼らは仕向けていたのである。
石川大佐や土方中佐には、その地位等から、それなりの情報が入ってくる。
そういったことから、冒頭の会話を交わすことになったのだが、欧州情勢で最大の懸念は、仏以外のところにあった。
「それにしても、独は、どこまで領土的野心を秘めていますかね。いや、生存圏をどこまで求めるつもりでしょうか」
「ヒトラー自身にも分かっていないのかもしれないな」
少し素に帰った土方中佐と石川大佐は、お互いに酒がまずくなる話と分かりながらも、話をやめられなくなった。
それくらい、独の動向はお互い気がかりだった。
独の動向を日本が気にかけすぎ、と思われそうですが、この世界の日本は、第一次世界大戦の際に、欧州に大量の兵を派遣しており、それにより日露戦争並みの被害を被っているので、どうしても気に掛かることになっています(それに石川大佐も土方中佐も欧州に赴いた身でもあります。)。
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