第5章ー1 北京と南京の占領
第5章の始まりになります。
かくして、米内光政新首相の下、中国内戦は激化することになったが、そう速やかに日本本土から陸海軍の部隊を送り込めるはずもなく、傍から見れば、どうして、そんなに手間取ったのだ、という遅々とした戦況になった。
1937年8月初頭から、万里の長城を越えた攻勢を、共産中国軍は展開したが、満州国軍は兵力が劣勢なためもあり、遅滞防御を展開し、ゆっくりと後退戦術を取った。
本土から駆け付けた日本空軍の応援もあり、この後退戦は、共産中国軍に多大な出血を強いた。
じりじりと退却していく満州国軍に対する追撃を展開する以上、共産中国軍は前進せざるを得ない。
そして、前進するということは、それだけ補給路が伸びることにつながる。
伸びた補給線に対して、日本空軍と満州国空軍は、執拗な空襲を浴びせた。
鵜の目鷹の目で、動く物を探し、自転車と言えど、荷物を積んでいると見れば、小型爆弾による爆撃を行ったり、機銃掃射を容赦なく浴びせたりした。
勿論、鉄道は、真っ先に攻撃の対象となった。
進撃する共産中国軍は、食料は現地調達に依存し、弾薬等のみを北京方面から運ぶことにしていた。
それでも、執拗な空襲により、共産中国軍は、弾薬等の不足に苦しむ羽目になった。
また、食料も思ったほど、共産中国軍は、確保できなかった。
共産中国の発想では、万里の長城を越えた共産中国軍に対して、満州国の悪政に絶望していた現地の民衆は、歓呼の声を浴びせ、積極的に食べきれない程の食料を提供してくれるはずだった。
だが、民衆同士の噂話の伝達は、予想以上に根深い。
万里の長城以南では、民衆の餓死者が続出しているという実態を知っている満州国の民衆は、共産中国軍を忌避した。
もし、共産中国の支配下に入ったら、今度は自分達が餓死する、と満州国の民衆は危惧したのだ。
そのため、満州国の民衆は、共産中国軍への食料提供に否定的で、共産中国軍の現地での食料確保は、うまく行かなかった。
更に輪をかける事態まで、多発した。
万里の長城を越えて、進軍する共産中国軍は、そのような現況にあることを、後方の北京等に報告せざるを得なかった。
だが、報告した者は、片端から銃殺の運命が待っていた。
北京等の認識では、現地の民衆から大量の食料が提供されるはずで、提供されないというのは、現地の指揮官が嘘をついており、私腹を肥やそうとしている証とされたのだ。
こうなっては、万里の長城を越えた部隊の指揮官の取る手段は一つしかなかった。
万里の長城を越えた共産中国軍は、現地の民衆から、現地調達という名の略奪を働くようになった。
そうしないと、兵の食料が確保できず、進軍できない以上、仕方ない話だった。
当然、現地の民衆の多くが、共産中国軍に敵意を抱き、ゲリラ戦を展開するようになる。
彭徳懐将軍等、良識的な共産中国軍の軍人は、このような現状を把握して、慌てて北京に連絡したが、北京政府の上層部は、頑迷で現実が見えていなかった。
ゲリラ戦を展開する満洲国の民衆は、反革命主義者であり、容赦なく弾圧せよ、という命令が下った。
こうなっては、共産中国軍は、満州国の民衆の敵意が、いや増す中を戦うしかなかった。
1937年9月下旬に、日本から戦時編制を完結した陸軍4個師団が満州に駆けつけたことで、日満連合軍の反撃が始まった。
更に10月下旬には、日本陸軍4個師団が満州方面に駆けつけたことで、ここに日満連合軍側が、量はともかく(この時点でも、共産中国軍は、約20個師団を万里の長城以北に展開しており、日満連合軍12個師団よりも、量的には優位だった。)、質的には優勢となり、万里の長城線への退却止む無しという事態に共産中国軍は陥った。
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