第3章ー1 中国内戦本格再開の要因
第3章の始まりです。
1937年7月7日に、山海関近郊で、いわゆる共産中国軍と満州国軍(いわゆる、という枕詞が付くのは、双方共に、自らの政府が、正統な中国国民党率いる中国政府であり、その軍も、正統な中国政府軍である、と主張していたため)が衝突し、銃撃戦を交わしたのが、一般的には中国内戦の再開の発端とされている。
では、何故、この時をきっかけに、中国内戦が再開されたのか。
その理由となると、21世紀の現在に至っても、精確には究明されていないというのが実態である。
その最大の理由が、共産中国政府の最高幹部の誰一人、第二次世界大戦後に生き残らなかった、ということである。
米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相は、第二次世界大戦の講和条件として、独ソ中政府に対しては、無条件降伏しか認めなかった。
米国のルーズベルト大統領に至っては、
「我が国は、独立戦争を唯一の例外として、基本的に戦争に際して、敵国が無条件降伏を受諾する以外では講和したことはないのだ」
と非公式に語ったという。
日本の米内光政首相をはじめとして、独ソ中に対して、条件付きの降伏を受け入れるべきでは、という意見が連合国内にもあったが、それなら、どんな条件付き降伏ならいいのか、という点で、連合国内で大論争が始まってしまう。
それでは、連合国内の足並みが乱れてしまい、戦争継続の障害となってしまうし、やはり、連合国内で第一の大国の米国と、第二の大国の英国が揃って意向を示しては、他の国、日仏等でも、最終的には沈黙せざるを得なくなってしまう。
こういった連合国の態度から、独はともかく、ソ連も共産中国も、政府の最高幹部は、誰一人生き残ることなく、第二次世界大戦が終結するまでに死を遂げてしまい、更に戦乱に伴う公文書の散逸が、それに輪をかけてしまった。
ソ連共産党員も、中国共産党員も、世界大戦後の裁判において、幹部は皆、死刑になっており、戦争中から降伏しても死刑になると分かっていては、降伏の路を選べる者が少なかったのも、むべなるかなである。
(もっとも、ソ連も共産中国も、作戦失敗等に伴う責任追及の果ての内部粛清によって、政府や軍の首脳の多くが、身内によって殺されていっており、連合国によって死刑になって亡くなった人間の方が少ない、というのが実態なのだが。)
そのため、第二次世界大戦の勃発の経緯等については、憶測に頼る部分が未だに多々あるのである。
中国内戦が再開された経緯について、最大多数的意見に従うならば、その最大の原因は、中国再統一を共産中国が決断したということになる。
満州事変によって、満州国が成立し、中国は二つに分裂した。
その後、満州国は、主に米日からの経済支援により、急速に経済的に発展し、更に黒竜江省油田の発見、商業的採掘の実現は、満州国が資源大国となる一環となった。
だが、その一方で、共産中国内の実態はというと。
1930年代、満州事変後に、独ソからの経済的協力により、共産中国は「大躍進」政策を採用して、世界の大国の一つに、自国を発展させようと試みた。
だが、これは大失敗に終わった、というのが多くの歴史研究者の見方である。
この当時の共産中国の対外発表によると、「大躍進」政策によって、年率1割を超える経済成長が実現されており、世界大恐慌にあえぐ資本主義国をしり目に、共産中国は、1937年夏時点で、日本をしのぐアジア第一の経済大国にのし上がっていた、ということになっている。
しかし、第二次世界大戦終結後、この当時の共産中国内部の実態について、直接、調査した者の多くが、満州事変後、中国内戦再開までに共産中国国内で多数の餓死者が、出ていたとしている。
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