間章1-1 料亭「北白川」
間章1の始まりになります。
料亭「北白川」の若女将、村山幸恵は、色々と噂が流れている存在だった。
母である大女将譲りの美貌は、20歳前に母から(半ば強引に)勧められた結婚によって、更に色っぽくなったとか、磨きが掛けられたとか、無責任な噂も流れている。
大女将の言い分では、料亭「北白川」の跡取り娘なので、後々、「北白川」の後継者で揉めないように、幸恵の結婚を進めただけ、ということだが(「北白川」の立板と、幸恵は結婚していた。ちなみに、大女将自身は、花板と結婚している。)、それにしても、早すぎる結婚だ、と「北白川」の常連の間で噂が流れたほどだった。
(もっとも、大女将の懸念も、全く杞憂という訳ではなかった。
幸恵からしてみれば、異父妹が2人ほどおり、大女将の夫、花板自身としては、自分の実子を、できたら「北白川」の跡取りにしたい、と内心で思っているのは、常連の間では公知の事実だったのだ。
花板も実力を認めた立板を、幸恵の婿に迎えるというのは、ある意味、合理的な話だった。)
最も、そんな噂も、幸恵の実父に関する噂からすれば小事と言える。
幸恵の実父は、戸籍上は空白の状態なのだ。
少し事情を知った面々からは、失笑されるレベルの噂だが、実は、幸恵は、北白川宮成久王殿下のご落胤なのだ、という噂まで流れている。
実際、料亭「北白川」の名前は、北白川宮成久王提督から賜ったものであり、事情を知らない面々からしてみれば、成程と唸るのも最もな話なのだ。
だが、実際には、全くの無責任な噂だった。
幸恵が実際に生まれた1916年春の1年以上前に、北白川宮提督御自身は、第一次世界大戦勃発に伴う海兵隊の欧州派兵の第一陣のメンバーの一員として、日本から出国している。
従って、幸恵が、北白川宮提督のご落胤の訳がなかった。
ちなみに、北白川宮提督御自身は、「北白川」の名を与えたことについて、次のように述べている。
「大女将の実父が、海兵隊員で、日清戦争で戦死した身だ。更に、大女将が、情を交わして子をなした相手まで、(第一次)世界大戦で失ったのを聞いて、心から同情してね。彼女が、嘘を言っているとは思えないので、「北白川」の名を与えたのだ」
では、幸恵の実父は、本当のところ、誰なのか。
大女将自身は、口をつぐんで、幸恵にさえ、明かしていない。
北白川宮提督は、大女将から教えられているのだが、
「女性の過去を探ろうとするのは、男として野暮の極みだよ」
と周囲に言って韜晦している状況だった。
ちなみに、幸恵自身は、余り気にしていない。
実父が不明の代わりという訳ではないが、幸恵には、父代わりが、何人も幼い頃からいたからだった。
養父にもなる大女将の夫の花板。
そして、(第一次)世界大戦で戦友を失った海兵隊士官の面々だった。
幸恵のことを知り、戦友を失った海兵隊士官の多くが、戦友とその忘れ形見をしのんだ。
ひょっとしたら、幸恵が、あの戦友の忘れ形見ではないか、そう思う海兵隊士官は多かったのだ。
幸恵の実父が分からないことが、その想いを助長していた側面もある。
幸恵は、ある意味で、生ける無名の戦友の忘れ形見の象徴となっていた。
幸恵自身、子どもの頃から、小耳に挟んでいた。
「あいつに、娘がいたら、幸恵のように育っていたろうな」
「ああ、生きて帰国していたら、可愛がっていたろうな」
「本当に、あいつが生きていたらなあ」
そう言っては、欧州から帰国してきた海兵隊士官の面々に、幸恵は可愛がられた。
普通に考えれば、幸恵が、奇妙に思うなり、不快に思いかねない話だった。
だが、幸恵は物心つく頃から、そう言われてきたので、特には思わなかった。
そして、今、幸恵は「北白川」の若女将として働いていた。
この世界では、第一次世界大戦の結果、数万人規模で戦死者を日本は出していますから、村山幸恵に対する海兵隊士官の面々の態度はあり得る話と思うのですが。
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