第2章ー7
この世界のイタリアの話になります。
そのような会議が、ポーランドで行われていた1937年春、イタリアでも、将来の運命について、政府(と軍)の首脳は話し合っていた。
「実際のところ、我が国の軍備を始めとする現状は、どうにもならない、ということか」
ムッソリーニ統領は、延々と続いた政府首脳会議の結論を、自分なりに要約して述べた。
その言葉に、会議に列席していた閣僚や軍の幹部は、皆、肯いた。
「我が国の工業基盤で軍備を整えることは、速やかにはできず、機会主義で行うしかありません。世界大恐慌の影響もあり、気が付けば、日本よりも見劣りする有様に、工業力が落ちています」
会議の出席者の一人、バルボ空軍元帥が発言した後、更に付け加えた。
「例えば、日本空軍が誇る96式シリーズに、我が国の国産軍用機は、質の面で明らかに劣勢です」
「ふん」
ムッソリーニ統領は、思わず鼻を鳴らした。
実際、内戦に明け暮れるスペインからの情報は、芳しくなかった。
フランコ総統は、明らかに日英側に傾斜しており、伊と距離を置くような態度を示していた。
「イタリア陸軍兵10万人より、日本の海兵隊、サムライ1万人の方が頼りになるし、兵器の方も、日英の方が、遥かに上等で、信頼性も高い」
と側近にこっそり語った、という噂さえ流れている。
同じファシストの盟友としてフランコを助け、また、地中海に信頼できる友好国を作ろう、というムッソリーニの思惑は上手くいっていなかった。
このままいけば、フランコは、日英の味方となるだろう。
イタリアの外交姿勢は、極めて微妙な段階にあった。
イタリアは、エチオピア戦争等により、友好国が減っており、外交的孤立を深めていた。
日本が満州事変により、漁夫の利を得て、満州に蒋介石率いる友好政権を樹立し、黒竜江省油田を米国と共同開発して、資源問題でも大利を得たのを横目で見たこと等から、イタリアも同様のことを行いたい、とムッソリーニは考えて、エチオピア戦争を起こしたのだった。
だが、前提条件の違いを、ムッソリーニは余り考えに入れていなかった。
当時の中国、北京政府(後の共産中国)は、南京事件に伴う日(英米)中の限定戦争や、山東出兵等により、日米から完全に敵視されており、英仏等からも、隠れ共産党政権だ、と非好意的に見られていた。
だからこそ、満州事変での(ある意味では)日本の汚いやり口に、世界的な反発が、一時的には起こったものの、徐々にその反発は収まり、事実上、満州国を容認するという国家(中には、共産中国の最大の支援国の筈のソ連までいた)が増えたのである。
だが、イタリアとエチオピアの関係は違った。
エチオピア戦争では、エチオピア側に世界的な同情は集まった。
エチオピアでは奴隷制度が未だに維持される等、エチオピアが、いわゆる非文明国であることは間違いなかったが、だからといって、20世紀の現在、イタリアによる植民地化が正当化される訳がなかった。
更に、満州と異なり、エチオピアでは石油等、資源が大量に産出することもなかった。
そういったことから、結果的にエチオピア戦争で、イタリアは勝利を収めたものの、資源等はろくに確保することはできず、結果的にイタリア軍が軍事的に損耗したのみで、更に外交的にはイタリアの孤立を招いたのみだった、といっても過言ではない、という事態が引き起こされていたのである。
更に、スペイン内戦でも、泥沼のような軍需品の消耗を、イタリアは引き起こしていた。
ある意味、それ以上に軍需品を生産すれば済む話ではあるが、イタリアの工業力が、それを許さない。
イタリア軍が、装備の更新を全て済ませるのには、最低、5年以上掛かるのではないか、という噂が流れる程だった。
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