第2章ー3
機動戦に対応できるように、様々な軍全体の改革を行う。
言うのは容易いが、実際に行おうとすると、色々と障害が出て、仏陸軍は悪戦苦闘する羽目になった。
まずは、陸軍幹部、士官等の教育、指導である。
第一次世界大戦の(中途半端な)経験から、塹壕主体のゆっくりとした戦闘をイメージしている一部の士官に対して、現代の戦車と航空機を主体とした機動戦を理解させるのは、大変な手間だった。
だが、これを遂行しないと、仏陸軍は、どうにもならなかった。
そして、それに対応するための組織を作り上げ、更に部隊間の連携が可能なようにならねばならない。
具体的に言うと通信等を充実させないと、意味がない。
また、例えば、ある程度の独立行動を、戦車(機甲)師団を編制して行わせるとなると、それを支援する工兵等の支援部隊が、その部隊には必要だし、どのような部隊を編制すればいいのか、と試行錯誤を仏陸軍は行う羽目になった。
だが、仏陸軍には、優秀な弟子がいて、戦訓等を伝えてくれた。
言うまでもなく、日本海兵隊である。
彼らは、第一次世界大戦後も、数々の実戦経験を積み重ね、戦車や航空機の活用に習熟していたのだ。
日本海兵隊の協力によって、仏陸軍は大いなる助けを得ることができた。
まさに情けは人の為ならずであった。
江戸幕府を助けようとしたナポレオン三世の遺産が、このような形で却ってくることになった。
こうして、仏陸軍は、機甲師団等の近代化された部隊を編制し、対独戦に備えようとしていったのだが、思わぬ問題が持ち上がった。
それは、戦車だった。
航空機に関しては、第一次世界大戦時、世界最大の航空大国だった遺産が僅かに残っており、イスパノエンジン等、日本やソ連が参考にするほどの航空関係の技術も持っていた。
国内の混乱により、ガタガタになっていたとはいえ、何とか新型機を導入、旧式機を更新していく目途があった(問題は、時間があるのかだった。)。
自動車にしても、ルノー等の自動車産業を支援し、自動車化、機械化を進めていくと共に、最悪の場合、米国から購入しよう、と仏陸軍は考えており、何とかなる、と考えていた。
だが、戦車に頭を抱えてしまった。
日本からの戦訓では、機動戦に用いられる戦車に搭載する砲塔は、できたら3人用、少なくとも2人用にするように、となっていたのだが、仏の戦車は、それまで1人用の砲塔ばかり搭載していたのだ。
正直に言って、機動戦ではなく、陣地戦ばかり戦うのならば、当時の仏戦車が搭載している1人用砲塔も、それなりの合理性がないとは言えない。
砲塔を大きくして、それなりの2人用砲塔なり、3人用砲塔を搭載するということは、それだけ戦車の乗員も必要になるし、生産コストも高くなる。
だが、実際に機動戦を戦うとなると、1人用砲塔には問題が多発する。
1人用砲塔だと、戦車砲の砲手と、戦車長(場合によっては、戦車部隊長)が兼務して任務を遂行することになる。
機動戦を戦う中で、戦車砲を撃ちつつ、戦車の周囲の状況を刻一刻と把握する等、神業の世界である。
そして、ある程度の大口径主砲(具体的に言うと75ミリ以上)を搭載するとなると、砲手以外に装填手も必要になってくる。
だからこそ、戦車長と砲手を分ける2人用砲塔の搭載が必要になってくるのだが、これまで1人用砲塔で充分と考えていた仏陸軍は、それこそ土台から新戦車を開発する必要があるという状況に陥ってしまった。
ことここに至って、仏陸軍は、二本立てで考えることにした。
まずは、正統な2人用砲塔を搭載した新戦車の開発である。
もう一つが、逆転の発想による固定砲塔を旧式戦車に搭載した砲戦車の開発、整備という非常手段だった。
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