第2章ー2
スペイン内戦で、スペイン国民派の将帥として辣腕を振るったのが、(表向きは日本はスペイン内戦に厳正中立を保ったため、日本の海兵隊の依頼を受けて秘密裡に派遣された)土方勇志伯爵であり、それに対峙したスペイン共和派の将帥が、(ソ連赤軍から同様に派遣された)トハチェフスキー元帥だった。
共に機動戦を好み、世界的に名将の誉れ高き将帥である。
土方伯爵は、1894年の日清戦争を初陣に、日露戦争、(第一次)世界大戦、日(英米)中限定戦争と戦い抜いた将帥である。
世界初の海兵隊所属の戦車師団長も務めており、日(英米)中限定戦争でも、戦車の集中運用と航空機支援の活用によって勝利を収めている。
一方のトハチェフスキー元帥も、「赤いナポレオン」という異名を持ち、ロシア内戦やポーランド・ソヴィエト戦争で偉功を挙げていた。
理論家としても知られ、縦深作戦理論の確立に多大な功績があった。
また、ソ連赤軍の機械化、近代化は、トハチェフスキー元帥無くしてはできなかっただろう、という評価まである。
だが、スペイン内戦において、トハチェフスキー元帥は子飼いの部下がいなかったのに対し、土方伯爵にとっては、子飼いの部下ともいえる1万人余りの日本海兵隊員がいた。
そして、1万人余りの海兵隊員は、いわゆる「白い国際旅団」の中核となり、「白い国際旅団」を精鋭部隊に仕立て上げた。
そのため、トハチェフスキー元帥は(土方伯爵に対する日英の支援に対して、相対的にソ連本国からの支援が乏しかったのもあるが。)、土方伯爵に敗れ、自決の止む無きに至っている。
スペイン内戦に関する著作を書いた軍事史家の多くが、次のように評するのもむべなるかなである。
「トハチェフスキー元帥に、土方伯爵と同様に、子飼いの部下1万人がいれば、スペイン内戦の帰趨は大きく変わっていたろうに」
そして、その戦訓(細かく言うと、この時点では、現在進行中の事柄ではある)に、仏陸軍は注目せざるを得なかった。
何しろ、内戦とはいえ、隣国で起こっているのである。
更に、共に仏陸軍に取ってよく知る将帥であった。
土方伯爵は、(第一次)世界大戦において、仏陸軍と共闘した将帥である。
トハチェフスキー元帥も、実はド・ゴールら仏軍の捕虜と共に、独による捕虜生活を送った経験があり、ポーランド・ソヴィエト戦争では、ポーランド支援に派遣された仏陸軍の軍事顧問団からすれば、好敵手であった。
その二人が、戦車と航空機を組み合わせた機動戦を展開している(厳密にいうと、土方伯爵の手元には、ほとんど戦車は無く、半自作の装甲自動車が精一杯だった。)という光景は、仏陸軍に強い印象を与えざるを得なかったのである。
この光景、戦訓から、ペタンやド・ゴールらの戦車と航空機を組み合わせて、将来の戦争を戦い抜くという主張は、強力な説得力を持つようになり、仏陸軍の改革を急進させた。
だが、それは仏陸軍にとって、極めて困難な茨の路に、自ら足を踏み入れることにもなった。
何しろ、スペイン内戦終結後に仏国防省を訪ねた土方伯爵が、
「いざ独仏開戦となった際には、仏陸軍総司令部には、無線や軍用電話、テレタイプの端末等、何十台も必要です、とスペインからの帰りに寄り道して語ったら、キョトンとされ、そんなもの通常電話と伝令で充分で、そんなの予算の無駄遣いもいいとこです、と仏国防省の職員に真面目な顔で言われてしまった。こりゃあ、ダメだ、と思ったね」
と第二次世界大戦後の内部の座談会で語った記録があるくらいである。
(さすがに、これは土方伯爵の冗談だ、という結論になっている。仏国防省の職員の具体名も不明だし、仏軍関係者も完全否定している。)
末尾の土方伯爵の談話ですが、史実から言うと、あながち間違っていない、という怖いオチが。
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