第1章ー14
可能性は極めて低いが、共産中国とソ連との二正面戦争にならず、対ソ戦のみが勃発した場合でも、日本海空軍は、対ソ連海空軍対策に手を抜けない、と日本の軍部は共同して考えていた。
勿論、ソ連海軍が、正面から(艦隊)決戦を挑んでくるのなら、日本海軍は絶対の勝算を持っていた。
だが、実際問題として、ソ連が、正面の艦隊戦力で日本に対して圧倒的に劣っている以上、そのような作戦をソ連海軍がとるわけがなかった。
ソ連空軍は、主力を満州、朝鮮半島方面に陸軍支援のために投入し、一部(具体的に言うと重爆撃機隊)を日本本土攻撃に投入する。
また、海軍は、潜水艦を主力として、通商破壊戦に徹する。
その一環として、日本の港湾に対して、航空機や潜水艦により機雷を敷設する等の作戦も行われる。
(この場合でも、共産中国は、ソ連潜水艦部隊に出撃基地を提供し、南シナ海等にまで、ソ連潜水艦の脅威が及ぶことになるだろう。)
これが、この当時の日本の軍部(及び政府の)上層部が、日ソ戦が起こった場合に、ソ連がとるであろうと予測している作戦であった。
(ちなみに、この予測は、ほぼ当たることになる。)
この対策を、日本海空軍は共同して検討していた。
まず、海については、日ソ開戦といった事態に突入した場合、速やかにソ連潜水艦の直接の商船等の攻撃に対しては、(第一次)世界大戦の戦訓に鑑み、できる限り、船団護衛戦術を取ることで、商船等の被害を減少させる。
港湾等に対する機雷敷設に対しては、掃海を徹底する。
また、逆に攻撃を行うことも検討する。
例えば、ソ連の港湾設備等に空襲を加えたり、逆に港湾に機雷をまいたり、場合によっては少数の精鋭部隊による奇襲上陸等を伴う攻撃作戦を小規模な基地に対しては行うことによって、潜水艦等の出撃を困難にする。
航空機等による対潜哨戒、対潜攻撃も並行して行う。
なお、このような状況に陥った場合には、米韓両国海軍と共同して戦うことを前提として、日本海軍は考えていた。
(韓国海軍の戦力は極めて小さいが、韓国沿岸の航路保護任務は何とか務まるだろう(日本海軍の非主流派は、本当に可能なのか、と疑問を覚えていたが)と、日本海軍の主流派と韓国海軍は考えていた。
また、米海軍については、台湾以南、主にフィリピン近辺の航路保護や、北太平洋の航路保護に協力してもらうことを、日本海軍は考えていた。)
話を変えるが、ソ連空軍対策も、日本空軍にとって、頭の痛い話だった。
1937年当時、極東ソ連空軍は、作戦に投入可能な軍用機、約1200機を保有しており、ここ数年の急増傾向から、1939年から1940年頃には、その数が、約2000機以上にまで増大する公算大、と日本側は推測していた。
勿論、1200機とはいえ、対満州、韓国方面等、ソ連空軍のカバーしないといけない空域は広く、それでも十分な数とは言えなかったが、これに対処するはずの満州国空軍や韓国空軍は、300機に満たず、旧式化した機体ばかりである。
どうしても、日本空軍が前面に出て戦わざるを得なかった。
1937年のこの頃、日本は、本土に対空警戒監視哨の設置の本格的な準備をはじめ、また、まだまだ手探り段階だったが、レーダーの研究を英米仏と協力して行うことで、本土防空網の充実を図った。
また、満州や韓国においても、対空警戒網の構築を指導し、防空体制の充実を講じようとした。
少し話が先走るが、何とか日本本土にレーダー基地を設置し、実際に稼働を始めることができたのは、(まだまだ信頼性が乏しかったとされるが)1939年8月のことになる。
文字通り、ギリギリのタイミングで、日本のレーダー開発は間に合ったといえる。
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