第1章ー7
さて、この頃の軍用機は、日進月歩といえる状況であり、96式シリーズが採用されたばかりの1937年にも関わらず、12試シリーズ計画が、空軍と海軍航空隊で発動される事態となった。
第二次世界大戦前期に活躍した日本の軍用機の多くが、この計画によって開発されたものになり、中には大戦中ずっと改良を重ねて使用された機種もある。
その中で、最も有名なのが、空軍で言うところの99式戦闘機である。
だが、この戦闘機は、そもそもが海軍によって12試艦上戦闘機として開発が進められたものであり、海軍航空隊も零式艦上戦闘機として、艦上機型を採用している。
何故、このような妙なことになったのか、それでは、空軍は12試戦闘機を開発しなかったのか、というと様々な要因が、これまた絡み合い、このような結果となった。
空軍の12試戦闘機は、鈴木と三菱、二社の競争試作ということで、共に1937年初頭に試作命令が出されている。
だが、この時点では、武装としては、12.7ミリ機関砲2挺装備という指示が下されていた。
そして、鈴木では、小山悌技師をトップとするチームが、三菱では、堀越二郎技師をトップとするチームが開発にあたることになった。
しかし、三菱としては、様々な事情(最大の事情は、堀越技師の体調面の不安)から、同時期に開発が海軍から指示された艦上戦闘機を陸上機向けに改造することで、この開発計画に参画することにした。
そして、順調に開発が進み、1939年初頭には試作機が鈴木、三菱共に完成するのではないか、という状況になっていたのだが、思わぬ横やりが入ることになった。
1937年半ばから提案された99式重爆撃機の導入問題である。
ソ連空軍というと、第二次世界大戦において、米独英日に劣る軍用機しか作っていない、というイメージを持っている人が、第二次世界大戦時の空軍に詳しいと自負する人にも多い。
実際、ソ連空軍が第二次世界大戦時に挙げた戦果と損失を見る限り、そのイメージはあながち間違っていると言い難いのも事実ではある。
だが、1937年のこの頃、ソ連空軍は、世界でも有数の四発重爆撃機を開発して、それなりの数を保有していたのも事実なのだ(ちなみに、当時の日本空軍は、四発重爆撃機の開発自体を断念する有様だった。)。
それが、ツポレフTB-3重爆撃機だった。
この重爆撃機については、1930年に試作機が初飛行を果たした機体であり、古臭い外見等から低く評価されていることが多いが、1935年時点で300機以上が既に前線配備状態にあったとされており、更にエンジン換装等により、徐々に性能が実際に向上もしている。
更に後継機の開発、量産が噂される等(実際、ペトリヤコフPe-8が、開発されている)、ソ連空軍の四発重爆撃機航空隊は、当時の日本空軍にとって、決して軽視できるものではなかったのだ。
(日ソ戦が勃発したとして、ソ連空軍の重爆撃機隊が、帝都に爆撃を加え、その爆弾が皇居に落ちでもしたら、日本の空軍将官は、軒並み切腹モノの事態となるのは明らかだった。)
これに対抗するために、防空能力を高めるのは、当然のこととして、殴られたら殴り返せではないが、こちらも重爆撃機を保有すべきだ、という意見が空軍内で高まったことから、米国製の重爆撃機をライセンス生産することが決まったのである。
そして、日本空軍に導入されることに決まったのが、当時の最新鋭機、米国で「空の要塞」と謳われていたボーイングB-17重爆撃機だった。
更に、B-17を試験運用した結果、日本空軍はその防御力に驚嘆し、12試戦闘機に12.7ミリ機関砲2挺では火力不足であると認識することになった。
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