第1章ー4
日本の陸軍と海兵隊は、ひたすら質的向上に努めていた。
「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門云々」という言葉を、かつての海軍艦隊派の総帥、東郷平八郎元帥は発して遺した。
流石にこの言葉に素直に肯けはしなかったが、命中率が2倍になれば、2倍の大砲を整備したのと似たような効果が起きる、と考えて、陸軍と海兵隊は、努力を重ねた。
そして、そのために、どちらかというと、訓練よりもソフト面の向上に陸軍や海兵隊は努めた。
何故、訓練等で何とかなると考えなかったのか?
それは、日露戦争や第一次世界大戦の苦い思い出があったからだった。
日露戦争や第一次世界大戦で、陸軍や海兵隊は、大量の損耗を重ね、補充に苦慮する羽目になった。
そして、新たに補充がなされた将兵に対して、猛訓練を施す余裕等はある訳がなく、ある程度の訓練が完了した段階で、補充兵を戦場に投入せざるを得ないという悲しい現実があった。
「1回こっきりの艦隊決戦で、決着がつくような海軍同士の戦争なら、まだしも。相次いで、将兵が死傷して、それを新たな補充兵で補うような国家総力戦で、補充兵に何年も猛訓練を施す余裕があるか」
陸軍のブリュッセル会の事実上の総帥、梅津美治郎陸軍次官は、そう喝破していたし、その言葉に陸軍や海兵隊の幹部の多くが賛同していた。
(また、海軍本体の条約派、空軍も、これについては基本的に同意を与えていた。)
こういったことから、ある程度の訓練を施せば、一流の戦いができるような質的向上を陸軍や海兵隊は、図るようになっていたのである。
英米仏と積極的に軍事交流を深めることにより、有線通信、無線通信の整備、着弾修正能力の向上、野砲級以上の砲については、最低でも自動車けん引化を果たす等、第一次世界大戦後、第二次世界大戦までの間に、陸軍と海兵隊の質的向上は、大したものといえるだけのことを、何とか果たすことができた。
それによって、第二次世界大戦開戦当初、ソ連陸軍の量を生かした大攻勢を、何とか日本陸軍は、しのぎ抜くことに成功し、米国の本格参戦も相まって、反攻に成功することにもなる。
少し話が先走り過ぎたが、1937年のこの頃、1940年初頭を目途にして、海兵隊の質的向上は、着々と進みつつあった。
旧式化した89式中戦車が、主力にならざるを得ないとはいえ、戦時には、動員を完結した6個師団それぞれに、戦車54両を装備した1個戦車大隊を配備することが可能になりつつあった。
勿論、機動力に問題はない。
英米の陸軍師団と同様に、海兵師団は、補給部隊でさえも、1940年初頭の段階には、完全自動車化を実現している予定だった。
火力にしても、師団砲兵連隊は、105ミリ野砲36門と155ミリ榴弾砲12門を、装備している予定であることから、そうそうソ連軍の狙撃師団であっても、引けは取らないと考えられていた。
そして、中国内戦の勃発は、日本海兵隊の質的向上に、拍車をかけることになるのである。
勿論、陸軍にしても、海兵隊の質的向上を、横目で眺めているだけではなかった。
海兵隊と異なり、戦時動員する19個師団については、旧弊と非難されても仕方のない、馬を主力とする歩兵師団にならざるを得なかったが、平時から整備されている師団については、戦車を一部の部隊に集中することで、機甲師団の編制に奔っていた。
中国内戦勃発前のこの当時、1940年初頭になると予想されてはいたが、日本陸軍は、5個機甲師団の編成を完了する予定だった。
日本陸軍の平時の19個師団を、5個機甲師団、13個歩兵師団、1個山岳師団として保有しようという大構想は、世界大恐慌から脱した日本にとって可能な存在だったのだ。
陸軍に詳しい人から見れば、こんなの蟷螂之斧、陸軍をもっと強化しないと、対ソ戦には戦力不足で、勝算0の火葬と言われそうですが、転生等無しのこの世界では、これ以上には、日本陸軍や海兵隊を強化できる気がしませんでした。
(ちなみに史実の日本では、質的には、これ以下の陸軍戦力なのに、独を当てにして、英米を敵視し、日中戦争を行いつつ、関特演という対ソ戦発動準備をしていた気が。)
ご意見、ご感想をお待ちしています。