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ジグリットが襲われた翌日には、王宮内で昨夜の事件を知らない者はいなくなっていた。王子が暗殺者に狙われたという話が、其処彼処で囁かれ、ジグリットとしては、この件をできるだけ隠し通しておきたかったのだが、屍体が出たとあっては大事にせざるを得なかった。
戴冠式を控えて忙しい炎帝騎士団や近衛隊の人員を自分の警護に回すことに、ジグリットは反対した。毒殺未遂ということで、料理人や食事を運ぶ侍従、それに食材を扱う小姓までが厳しく選出され、侍従が王子と王女の食事を前もって毒味するという異例の処置まで採られるようになっていた。
息苦しい王宮内において、ジグリットはいまだにファン・ダルタと共に居室に閉じ篭っていた。これはすでに騎士長や他の騎士からの頼みでもあった。戴冠式が終わるまで、誰もが怪しい影に眸を光らせ、王子を守る誓いでも立てたかのようだった。
「王子、ちょっとこちらへ来て下さい」
寝台の上で日がな一日、やる事もなく読書に明け暮れていたジグリットを、冬将の騎士が隣りの続き部屋から呼んだ。ジグリットは不精者のように、ゆっくりと起きて続き部屋へ入って行った。
「何か面白いことでも見つけた?」
ぼさぼさになった髪を一応は押さえようとしながら行くと、そこには彼のもっとも会いたくないリネア王女が、底意地の悪そうな笑みを浮かべて立っていた。冬将の騎士は部屋の隅の長椅子に座り、書類を手にちらちらと、こちらを窺っている。
「リネア、どうかした?」問いかけたジグリットに、王女は顔をしかめた。
「あら、酷い格好ね、ジューヌ」彼女は颯爽と近寄ると、彼の髪に手を伸ばした。
一瞬、殴られるのかと身を引いたジグリットに、王女は可愛らしく、くすくす笑った。
「怯えた猫みたい。それともこの弟君は、わたくしが誰かも忘れてしまったのかしら?」
ジグリットは押し黙ったまま、冷淡な眸をしたリネアを不安げに見つめた。
「忘れてなんかいないよ、リネア」
「本当に?」リネアはその場でくるりと反転し、長い錆色の髪の甘い香りをジグリットに振りまいた。「最近、自分の弟にも会えないから、どうなっているのか聞きたかったのよ、わたくし」
「どういう意味?」
「そこにいる冬将の騎士に、弟に会いに来たって言うでしょう。そうしたらあの狼、いつもこうよ。『王子はただいま就寝中です』それでわたくしはここしばらくあなたに会えなかったってわけ」
ジグリットは冬将の騎士を見た。彼は書面を見つめている振りをしている。
「それはすまなかった。でも場合が場合だし」
ジグリットの釈明に、リネアは冷ややかな笑みを浮かべた。
「姉が弟に会いに来るのに、暗殺は関係ないわ。そうでしょう。それとも、あなたはわたくしを疑っているの?」
「・・・そんなことは」
ジグリットが慌てて首を振ると、リネアは初めて真剣な眼差しで口を開いた。
「これだけは覚えておいてちょうだい、ジューヌ。黒き炎の一族は完全なる一つの炎。偽りなくわたくしは王権など欲していないわ」
そして彼女は扉口へ向かったが、すぐに振り返った。
「ああ、言い忘れるところだったわ」
ジグリットはリネアがにっこりと微笑むのを見た。それは身震いするような邪悪な笑みだった。
「わたくしが誰かを殺すつもりなら、他人の手で毒殺なんて面白味のないことはしないわよ。自分の眸の前で、もがき苦しんで欲しいじゃない。この世でただ一人、わたくしという存在を妬み呪い死んでこそ、殺しがいがあるってものよ。ふふ・・・・・・」
彼女の薄気味悪い笑みを残して、扉は静かに閉められた。ジグリットは廊下から入ってきた冷気を感じ、ぶるっと肩を震わす。騎士は眸を丸くして、まだ扉を見つめていた。そして呟いた。
「王女が刺客を放ったのでないことだけは確かだな」
そのようだとジグリットも思ったが、だとすると誰が王子を狙っているのか。
霧の中のように迷い込んだようなおぼつかない気持ちで、ジグリットは敵の姿をしっかりとこの眸で確かめなければと心に決めた。すでに戴冠式まで四日と迫っていた。
翌朝、リネアは彼女を起こしに来た侍女のアウラから、ジグリットの急な外出を聞かされた。アウラはリネアの髪を梳きながら、他の侍従に聞いた話を彼女に伝えた。
ジグリットがこの忙しい時に、近場の森に狩りに出かけると言い出し、炎帝騎士団や近衛隊が止める間もなく勝手に出発してしまったのだ。
敵に狙われているというのに、王子は何を考えているのかと、王宮中の人間が眉をひそめていると聞いたリネアは、可笑しそうに笑った。
「狩りに? 考えたじゃない」
アウラは王女の他人とは違った考え方に今日も同意できないまま、続きを話した。
「同行したのは、冬将の騎士一人だけだということです」
「敵を炙り出すにはちょうどいいわね。まぁ、あの狼がどれだけ偽王子を守り切れるかにかかっているわけだわ」
楽しそうに微笑んでいるリネアに、アウラは口を挟んだ。
「リネア様、ジューヌ様・・・いえ、ジグリットが殺された場合、次の王位はあなたのものです」
アウラの興奮した様子に、王女は窘めるように眸を細めた。
「アウラったら、つまらないことを言うのね。権力など女が欲するものではなくてよ」
「ですが・・・・・・」
「それに、たった二人とはいえ、あの狼を殺すには剣技を仕込んだ兵が百は必要よ。平和呆けした貴族の子飼いが何人来ようと、そう簡単に彼らは殺せないでしょう」
「戻って来るとお考えなのですね?」
「ジグリットが生きて? それとも屍体で? わたくしはどちらでも構わないわ。退屈さえしなければね」
アウラは王女が本当にそれしか思っていないことを知り、諦めにも似た溜め息を押し殺した。これは最大の機会だ。王子が、もといあの贋者が死ねば、リネアが女王にならざるを得ない。そしてただの侍女である自分は、王女付きではなく、その瞬間に女王付きの侍女頭。それは甘美な響きだった。中流貴族のアウラの一族が、上流貴族の十一家に名を連ねることすら、夢ではなくなるだろう。
だが王女にその気がないことは、それが単なる夢だとアウラに告げていた。王女をその気にさせることは、駄馬を駿馬にするほどに難しい。アウラは願うだけに留めることにした。王子が森で死ぬことを――。しかしそれも聡い王女が推測した通りなら、望みは薄かった。




