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数日が経ち、ジグリットはファン・ダルタと共にソレシ城の居室に閉じ篭もっていた。冬将の騎士は王子の持っている兵法書を静かに熟読し、数時間起きに体力が衰えないよう、軽い運動をする以外、やることがなかった。ジグリットも同じことで、戴冠式の準備に王宮の内外が忙しい今、マネスラーを読んで勉強会を開くこともできなかった。あまりの退屈に、二人は一度、部屋の中で短剣の扱い方について練習していて、部屋の豪奢な松材の衣装箪笥を破壊し、侍従に酷く怒られた。それ以来、二人とも時間が過ぎることだけを祈る毎日だった。
王子の居室を訪れるのは、ジューヌ王子付きの侍従が一人と、騎士長のグーヴァー、それにもちろんリネア王女とその侍女アウラだけだった。
戴冠式まで八日。その日もジグリットはファン・ダルタと共に、少し早い夕食を摂ろうとしていた。部屋を出ないと決めてから、侍従に食事を運ばせ、準備をさせていたジグリットは、その日の夕餉に限って、侍従がいつものウェインではないことに気づいて、料理夫見習いの白衣を着た青年に訊ねた。
「ウェインはどうしたんだ?」
青年は白衣の裾で手を拭き、台車で運んできた皿を並べている。
「す、すみません、ジューヌ王子。ウェインは熱を出して寝込んでしまいまして」
ジグリットは丁寧に食器類を並べていく青年の手をじっと見つめた。その手は白くしなやかで綺麗なものだ。ジグリットは離れた場所で天鵝絨張りの長椅子に腰かけていたファン・ダルタを振り返った。そして腰の剣柄に手を置いて言った。
「君の名前、なんて言うんだっけ?」
青年は円卓から眸を離すことなく答えた。
「ルーハスです、王子」
初めて冬将の騎士は妙な空気を感じ取って、立ち上がった。
「ルーハス、君の手は綺麗だね」そこでルーハスも怪訝な顔で王子を見上げた。ジグリットは続けて言った。「料理夫見習いの手は、常に荒れているものだ。冷たい水で食器を洗わされ、芋の皮剥きから野菜の始末までやらされるからな」
ジグリットが言い終わらない内に、ルーハスの拳がジグリットの頬を殴りつけた。
「王子ッ!!」ファン・ダルタが駆け寄ってくる。
しかしルーハスの方が一瞬早かった。青年はジグリットの背後を取り、隠し持っていた短剣を王子の首に押し当てた。
「止まれ!」ルーハスの緊張した声が、騎士の動きを封じた。「いいか、剣を仕舞うんだ」
すでにファン・ダルタは腰の長剣を抜いていた。
「剣を仕舞え! 言う通りにしろ! さもないと王子の首から噴き出した血で絨毯を染めることになるぞ!」
騎士は捕まっているジグリットが容易には抜け出せないことを見てとると、鋼の剣を青年の足元に乱暴に投げ捨てた。
「そ、それでいい・・・・・・。いいか、動くなよ。ちょっとでも動いたら、王子は主の御許で亡きクレイトスと再会することになる」
ルーハスの指先の震えが、ジグリットの喉にまで伝わってきていた。短剣はよく磨かれた切れ味のよさそうな代物だ。ジグリットは落ち着いて青年の額に浮かんだ緊張の汗を見上げた。青年の顔に見覚えはない。どうやってこの状況を打破すべきか、そしてその方法をすでに騎士が考えついているなら、どうするつもりなのかをジグリットは考え始めた。
虜囚となった二人の男を前に、ルーハスは自分が優位に立っているというのに、怯えた様子で後ずさった。そして冬将の騎士を顎で指した。
「おまえ、そこの葡萄酒を開けろ」
ルーハスが何をしようとしているとしても、ジグリットが掴まっている限り、ファン・ダルタは従うだろう。ジグリットがそう思っている前で、騎士はその通りにした。
葡萄酒の瓶を手にすると、ファン・ダルタは小気味良い音をさせて栓を抜いた。
「これでいいのか?」
「そ、そうだ。さっさと杯に注げ」
ファン・ダルタが杯に半分も満たない量の赤い液体を注ぐ。そのとき騎士の眸が眇められた。
「なるほど、毒か」
ファン・ダルタが杯を持ち上げると、溶け切らなかった粉末が沈殿していくのが見えた。
「おれと王子が気づかないで飲むと思ったのか?」
「黙れッ! 黙って口をつけろ。一気に飲み干すんだ」
ジグリットは幾ら何でも冬将の騎士がそこまでやるとは思っていなかった。何の毒かもわからないのだ。即死するかもしれない毒を、易々と口にするはずがない。しかし、騎士は杯を口にあてた。
「やめろッ! 飲むな!!」
思わず叫んだジグリットに、ルーハスが「黙っていろ!」と短剣を首に強く押し当てた。首筋にチリッと微かな痛みが走り、生温かい液体が伝う感触がして、ジグリットは口を閉じた。
「ハハ・・・ハハハハハ・・・・・・王子だけでなく、黒き狼まで始末できるとはな。さぞ御館様もお喜びになるだろう」
ファン・ダルタは葡萄酒を一気に喉に流し込んだ。
「飲んだぞ。さぁ、王子を離してもらおうか」
騎士は仇を見つめるような冷酷な光を伴った眸でルーハスを睨んでいた。そして徐々に二人に近づきつつあった。
「こ、こっちに来るな!」
相手の冷淡な眼差しに恐怖と狼狽を感じ、焦ったルーハスは、ジグリットの喉元を押さえていた短剣を騎士の方へ突き出し、振り回した。二人はその隙を見逃さなかった。ファン・ダルタは大きな二歩で、そしてジグリットは相手に取られていた左腕を捻り上げ、身を屈めるとルーハスの躰を背に乗せて前方へ投げ飛ばした。それをファン・ダルタが上から瞬時に押さえつける。
「王子、大丈夫ですか!?」
ジグリットはぬるぬるする首筋の血を手の甲で拭い、立ち上がった。
「ああ、平気だ。それより、おまえこそ毒は大丈夫なのか?」
騎士は特段変わった様子もなかったが、確かに杯は空になっている。毒を飲んだのなら、すぐに処置しなければならない。
「わたしなら大丈夫です。口を付けた振りをしただけですよ」ファン・ダルタは顔をしかめた。「おかげで服の下は葡萄酒でベタベタですが」
ジグリットの安堵とは裏腹に、騎士は気を緩めず真下で呻いているルーハスの赤髪を鷲掴んだ。
「おい、洗いざらい吐いてもらうぞ。誰に雇われた?」
ルーハスは騎士が全体重をかけて乗っている上、いつの間にか今度は自分の首に短剣が押し付けられているのに、すっかり戦意を喪失した様子でただ苦しげに唸った。
「答えろ、おまえのような下劣な輩でも命は惜しいだろう」
ルーハスの顔が醜く歪む。その眸の鈍い輝きを見たジグリットは、恐ろしいことに思い至って叫んだ。
「ファン・ダルタ、ダメだッ!」
しかしすでに遅かった。ルーハスはどんよりとした表情になり、徐々に眸の色が薄くなっていった。
「な、なんだ・・・・・・!?」
ファン・ダルタが手を離す。ルーハスの首はだらんと床に落ち、騎士が上から退いても身動き一つしなくなっていた。
「何が・・・・・・」
動揺している騎士にジグリットはうな垂れた。
「毒だよ。最初から彼も毒を口に含んでいたんだろう。こういう時のためにな」
屍体となったルーハスにファン・ダルタは舌打ちし、苛立たしげに側を離れた。
「死ぬほど言いたくないとはな」
「それとも、失敗を告げることすら恐ろしくてできない相手かもしれない」
ジグリットの言葉に騎士はさらに不快感を顕わに、足早に廊下へ向かった。扉口で振り返る。
「そいつの始末をさせましょう。それから王子――」
ジグリットはまだルーハスを見下ろしていた。ファン・ダルタはそれに気づいて訊き返す。
「どうしたんです? 屍体を見るのは初めてではないでしょう」
「そうじゃない」
ジグリットはしゃがんでルーハスの首にかかった黒ずんだ紐を引っ張った。するすると持ち上げると、紐の先に木切れのようなものがついている。
手に取って調べているジグリットの真上から、ファン・ダルタが覗き込んで言った。
「少女神の御守りですね。どうやら手彫りらしい。これは良い証拠になりますよ。こいつが何者かわかるかもしれない」
しかしジグリットの興味は、もうそこにはなかった。彼が見ているのは、その手垢のついた汚れと、彫りが磨り減ったように薄くなった凹凸だった。毎日、これに触れていなければこうはならないだろう。鑢をかけたように滑らかなそれは、天を向いて歌う少女神の顔が、もう判別できるかできないかというまでに平坦になっていた。
――少女神に祈りを捧げる者が、人殺しをしようとはな。
フランチェサイズで出会った本物の少女神、アンブロシーナが知れば、きっと悲しむだろう。
「ルーハスは平民か・・・もしくは・・・・・・」
考え込んでいるジグリットの隣りにファン・ダルタはしゃがみ込み、横から彼を見つめた。
「王子、こいつが貧民だと考えているのですね」
「・・・・・・そうかもしれないと思っただけだ」ジグリットは立ち上がり、騎士から顔を逸らした。「金持ちならそんな古びた御守りなど持たないだろう」
誰かが彫った少女神を首に下げていた彼の、一人の人間としての青年のことを思うと、ジグリットは嫌な気分になった。
「前に逃げたときとこいつは別人だな」なんとかそう口にする。
「そのようですね。眸の色が違います」
ジグリットが落ち込んでいるのを見て取ると、ファン・ダルタは彼の頭を撫でるようにやさしく掴んで、引き寄せた。ジグリットは驚いて顔を上げたが、ファン・ダルタは気にもせず、自分の胸に彼の頭を押し付けて、母親が子供にするようにポンポンと数回背中を叩いた。気恥ずかしくなったジグリットが両腕をつっぱねて離れる。ファン・ダルタがそんな態度を取るのは、ジグリットがジューヌ王子に成り代わって以来の事だった。面食らっているジグリットを置いて、騎士はさっさと一人、廊下へ出て行く。彼が侍従を呼ぶ声だけが響いてきた。




