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ジグリットがタザリアの王都チョザへ連行されるまで、エスタークから二日半かかった。彼らは35リーグ(およそ168キロ)を一度、途中で野営したが、それ以外はずっと馬を走らせていた。そのおかげでジグリットはすっかり尻の皮が捲れてしまい、チョザへ着く手前まで、早く馬から降りることばかり考えていた。
ただし、それは王都チョザの壮麗で瀟洒な街並みを見るまでの話だ。ジグリットはチョザの凱旋門を潜った瞬間から、尻の痛みなどすっかり忘れ、目新しい流行の格好や見たことの無い高層の建物に眸を奪われていた。
それらはまるで、神の創った街そのものだった。人々は笑いさざめき合い、紅色や菫色といった様々な色で染められた、絹やレーヨン、それに繻子や麻、ジグリットの見たことのない服地までをも身に纏っていた。聳える建物はみな高く、屋根は鉛瓦や石綿板で葺いてあり、窓辺には赤や黄色の花が植えられていた。そして、その街の南側には、キラキラと輝く水面が眩しい大きな湖があった。テュランノス山脈に接したアンバー湖の周りには、チョザに住まう上流貴族の家々が競い合うように並んでいた。そして、その北側を占めるのがもっとも豪華で煌びやかな王宮だった。
飛び交う声もエスタークの商店では見られないような、活気のある呼び声に溢れていた。行商人や小売商人が軒から出て、売り込んでいる。「今季の乾酪は安いよ! 油! 油に塩はいかが!」と乾酪商が声を上げると、別の場所から家禽商が「鶏、家鴨、七面鳥だよ! パイならここが一番!」と叫ぶ。
幾ら見ても見飽きないだろう街の中を、騎士団を中心に帰還兵の長い列が大通りを過ぎて行く。その足はゆったりとし、兵士でさえ街の熱気に当てられたかのように、頬を紅潮させていた。民は騎兵が通る瞬間、道を開け、様々な挨拶をした。礼をする者、手を振る者、労いの声を上げる者などだ。その一々に騎士長グーヴァーはにこやかに笑みを返したが、隣りを歩く漆黒の騎士、ファン・ダルタだけは無愛想のままだった。彼は一度たりとも、相好を崩さなかった。
グーヴァーはエスタークの街を出た後、西へと向かった。それはチョザの方角ではなかったが、そこには彼の部下を含め、下級兵士など四百人が野営していた。エスタークのような小さな街には入りきらないとわかっていたので、グーヴァーは少人数だけをエスタークへ共に連れて行き、食糧や医薬品といった物資を運んでいたのだ。
ジグリットはエスタークの西の平野で、初めてたくさんの兵士を目の当たりにし、野営の天幕を畳むのをグーヴァーと共に手伝った。兵士はみな、帰還する喜びに溢れ、怪我人も大勢いるというのに、歌を歌ったり莫迦な話で笑い合ったりと常に陽気だった。
四百人の帰還兵に混じって、ジグリットはグーヴァーの馬の背に乗り進んだ。グーヴァーはジグリットを客人のように扱った。ジグリットの服はいまだ汚れきった上衣によれた毛編だったが、心はなぜか晴れ晴れとしていた。エスタークを出た寂しさを、ジグリットはまだ感じていなかった。見るものすべてが初めてで、彼の胸は湧き立っていたのだ。
エスタークを出るとき、ジグリットはグーヴァーと契約を交わしていた。それは、彼が残していかなければならない仲間のことだった。自分がチョザへ行くことになれば、まだ九歳のテトスとマロシュだけではやっていけないかもしれない。八歳のナターシだって、これまで以上に働かなければならないだろう。六歳のギーブと五歳のベルウッドの面倒を誰が看てくれるだろう。そうした問題を解決しない内には、どこへも行けないとジグリットは伝えたのだ。
グーヴァーは神妙にそれを考えていたが、やがてジグリットに相応の金額を払うと申し出た。ジグリットは彼と折衝し、今月のおやっさんに払う見ヶ〆料と、今後一年分として、グーヴァーの全所持金と彼の愛馬ロゼの鼻面を覆っていた純銀の飾り轡、それにテトスが盗もうとした豪奢な鞍など、馬具一式を譲り受けた。もちろん、それは孤児達が一年暮らしていくのに、充分すぎるほどの代価だった。一年経てば、二人の少年も十歳になる。きっと自分達でやっていけるだろう。ジグリットはこうして、グーヴァーやその他の帰還兵達と共にチョザを目指すことになったのだ。
チョザの王宮へ辿り着く頃には、ジグリットの興奮は最高潮に達しようとしていた。風邪で出ない声がもし治っていれば、歓呼の声で喉を嗄らしていただろう。しかし彼の声は、いまだ出ないままだった。
ジグリットは馬車が二台はすれ違えるほど幅のある跳ね橋を、グーヴァーの馬と共に渡って行った。そこが王宮であることは、説明されずともわかった。高台の巨大な王宮は、チョザに入る前から見えていたからだ。それは針葉樹林のように天を差すたくさんの塔と、綿毛のように白い外壁の建物でできていた。城壁の長さはエスタークの街よりも長く、チョザの街だけでもエスタークが十個は入るぞと思っていたジグリットをさらに驚かせた。
「もうすぐ王に会えるぞ、ジグリット」とグーヴァーは野太い声で嬉しそうに言った。「わたしの後ろで同じように行動するんだ。いいな。膝をついてお辞儀をする。それから・・・・・・」
ジグリットはグーヴァーの説明にふんふんと頷きながらも、南のアイギオン城と西のソレシ城の間を抜けながら、しきりに辺りを観察した。チョザの街ほどではないにしろ、王宮の内もまた人込みに溢れていた。それらの人々は忙しそうに行ったり来たりしている。グーヴァーの愛馬ロゼの首を手綱で厩舎へ向けていると、小汚い格好の男が一人走って来た。
彼はジグリットとあまり代わり映えのしない服装だったが、よく見ると髪はちゃんと梳かれていたし、頬も血色よく光っていた。何より彼の履いている長靴は、裸足のジグリットと違って立派な物だった。ただ、馬の糞で少し汚れてはいた。
「お帰りなせぇやし、グーヴァー騎士長」
男が言うと、グーヴァーは眸を細めて親しげに笑った。
「またコイツの世話を頼むよ、ルッカル」
「任せといてくだせぇ。ロゼはおいらの子供同然でさ」
「おまえにとっちゃ、馬はすべて子供だろう」
言いながらグーヴァーはジグリットの脇に手を差し入れると、彼を先に地面に降ろした。そして自らも鐙に足をかけることなく、甲冑を着たままだというのに、身軽に飛び降りた。
「彼はルッカル。王宮の馬丁だ」とグーヴァーは説明した。
ジグリットは見下ろしていた男を、今は見上げなくてはならなかった。頭頂部の薄かった小汚い男の印象は、下から見上げるとまた変わった。ルッカルは人好きのする笑顔でジグリットを見た。そして、驚いた顔で眸を瞬かせた。
「おや、王子じゃねぇですか。いつ騎士団と一緒に? まだ初陣には早いでしょう!?」
グーヴァーはハッハッと短く哄笑した。
「ルッカル、彼は王子じゃない。似てるがね」
「えっ、えっ? 王子じゃないって?」
困惑している馬丁を置いて、グーヴァーはジグリットの肩を掴んで歩き始めた。内郭には厩舎入りを待つ馬がそこかしこに立っていて、二人は馬と馬の間を縫うように行かなくてはならなかった。
「タザリア王が居られる場所は、このアイギオン城だ」
グーヴァーは一番大きい建物にジグリットを連れて行った。西と東にある二つの城を足したほど大きいその城は、中庭に面した中央に巨大な白磁の扉があり、今は左右に開かれていた。
ジグリットは白い階段を昇り、扉を入った。広い玄関広間は御影石のタイルが敷かれ、壁は土と石灰で白く塗られている。言葉もない豪華絢爛さだった。ジグリットは冷たい裸足の裏で、その城の凄さを感じ取り、背筋がぞくぞくした。
グーヴァーはそれに気づかず、彼の背を押して行く。二階の謁見室へ辿り着く頃には、ジグリットは身分違いを肌で知り、興奮よりも恐怖で震えが出ていた。