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聖階歴2021年、黄昏月76日。タザリアの王、クレイトス・タザリア三世が死去したことは、瞬く間にバルダ全土の国々の知るところとなった。簡単な仮葬が三日後に、そして本葬が十五日後に行われた。各国の代理者やタザリアの上流階級などが集まり、ジグリットはその準備と挨拶に駆けずり回っていた。リネアも同様に多忙を極め、エスナ王妃だけが相も変わらずマウー城に篭もっていた。王妃は王が亡くなった後、アイギオン城で丸一日その亡骸の側にいたが、翌日からは顔も見せなくなっていた。
ジグリットが王の葬儀に奔走していた頃、王宮の水面下では静穏を装いつつも、不審な影が動き始めていた。彼が最初にその事に気づいたのは、本葬が済んだ翌日だった。それは長く寒い白帝月の始まりの日で、それまでジグリットは、自分の居室があるソレシ城に戻ることもできないほど忙しく、アイギオン城の謁見室か会議室、もしくはタザリア王の執務室を行ったり来たりする生活を送っていた。
まだ鳥の声さえ囀らない早朝、ジグリットは会議室の広い机に突っ伏して眠っていた。彼は明け方まで働き詰めで、今は唯一の安息の時だった。夢も見ずに眠りについたジグリットに、共に働いていた騎士長のグーヴァーと、冬将の騎士ファン・ダルタは彼を起こさず、兵舎へと戻ったばかりだった。ここのところの性急な出来事に、太陽が昇る前の王宮は静まり返っていた。侍従も侍女もまだそれぞれの城の両端にある小塔で休んでいたし、外の警護をしている近衛兵達は敵の姿でも見えない限り、その静謐を破ることはなかった。
ジグリットは薄明るくなってきた外の朝焼けが、窓から白い光線となって顔に当たるまで動いてくると、眉根を強く寄せ小さく身じろいだ。ぼんやりと生暖かいような眠気の中で、彼の耳はかすかな物音を聞いた。
カツン、カツン、と廊下を行く足音。それは徐々に近づいて来ている。ジグリットはそれを耳にしながらも、まだ眸を閉じたままでいた。疲労のために腕も頭も重くて、瞼は上下が張り付いたように頑なに開くのを拒んでいた。
足音が扉の前で止まったとき、ようやくジグリットはうっすらと眸を開いた。
――こんな時間に誰だ?
窓から差し込んだ光が机の上に、橙色の水面に似た影を作っている。
ギイイィィ、と扉が開かれた。それでもジグリットは伏せたままでいた。動くのは億劫で、相手が誰であれ、王子が寝ているとわかればすぐに部屋を出て行くだろうと思ったからだ。
しかし扉を閉める音はなく、代わりにカチッと金属の触れ合う音が一度だけ響いた。
――何なんだ!?
足音は絨毯に吸い込まれていたが、ジグリットは気配で相手が近寄ってくるのに気づき、顔を上げて振り返った。眸の前に短剣を翳した男が立っていた。
「誰だッ!?」ジグリットが椅子を倒して立ち上がる。
男は無言で剣先をジグリットの顔へ突き出した。ジグリットは寝起きの鈍い躰を素早く動かそうとして、足元がふらついた。おかげで顔のど真ん中に命中するはずだった男の刃が首を掠めただけに留まる。
「名を名乗れッ、ぼくを誰か知ってのことか!?」
男は顔を黒布で覆い、見えるのは眸だけだった。黒の上下服は身軽さだけを考えたのか、薄い上衣一枚で鎖帷子すら付けていない。
口を利く気がないのは明白で、すぐに二撃目が突き出された。ジグリットは背後の机に両腕をつき、咄嗟に飛び乗った。積んであった書類が衝撃で床にバサバサと落下する。机の向こう側に降りると、男はジグリットの方へ回り込もうと走って来る。
――クソッ、何か武器になるものは・・・・・・。
ジグリットは腰に剣を帯びていなかった。それどころか、会議室のどこにも武器になりそうなものはない。あるのは紙切れと机と椅子だけだ。
二人は机をじりじりと回りながら、お互いの距離を保っていた。やがて、ジグリットが机を半周し、扉口に一番近い場所まで来ると、窓側にいる男に向かって机を思い切り蹴り上げた。机が倒れる。しかし男もそれを読んでいたのか、怯むどころか乗り越えようと足を上げている。ジグリットは急いで扉へ走った。
――誰でもいい、兵を呼ぶんだ!
すぐ後ろに男が短剣を振り上げて襲いかかっていた。ジグリットが半開きだった扉を叩くように開けた瞬間、眸の前が鋼の黒一色になった。
「王子ッ!!」聞き覚えのある声が叫んだ。
そして間髪入れずに騎士はジグリットを横に突き飛ばした。ジグリットは騎士の持っていた白い毛布と共に廊下を転がるように倒れた。
起き上がったときには、男が短剣をファン・ダルタに向かって振り回しながら扉の外へ出て来て、騎士が長剣を抜くところだった。
「王子を狙う不届き者か、死んで詫びろ」ファン・ダルタが冷たい声で言い放ち、剣を抜いた瞬間、男はあっさり彼に背を向けた。
ジグリットは立ち上がりながら、廊下の反対方向へと逃げて行く敵の姿を見つめていた。ファン・ダルタがすぐに追って行こうとする。それをジグリットは毛布を拾いながら止めた。
「ファン・ダルタ、もういい!」
「ですが、王子・・・・・・」
ジグリットは彼の持ってきた毛布で冷たい躰を覆った。少し震えが治まった気がした。
「ぼくは丸腰なんだ。おまえがあいつを追って行って、別の刺客が来たらどうする」
「・・・・・・」冬将の騎士は僅かに逡巡したが、渋い顔でジグリットを振り返った。「わかりました。ここから離れた方がいいでしょう。王の居室へ参りましょう」
騎士は剣を手にしたまま、ジグリットを警護するようにぴったりと付き従い、居室に着くまで一時足りとも気を抜くことはなかった。




