第六章 黒き炎、絶家のとき
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同年、黄昏月23日。ジグリットがジリス砦から帰還して、まだひと月も経っていなかった。王子の居室を一人の男が訪ねて来たとき、確かに彼は不穏な空気を感じ取った。それは今までになかった事で、ジグリットが怪訝に思うのも無理はなかった。その人物はソレシ城に来ることすら稀だったからだ。
「お呼びいただければ、ぼくから出向きましたのに」ジグリットは、侍従のウェインが入れた薬草を煎じた熱いお茶を口にしているタザリア王に告げた。
クレイトスは杯を置き、気にするなと言うように軽く首を振った。
「いいんだ、ジューヌ。たまにはあの堅苦しい場所から逃げ出す口実を与えてくれ」
疲れを隠せない王の姿に、ジグリットは微苦笑して見せた。
「ええ、そういう事ならいつでも」
ジグリットは眸の前で脚を組み、自分のいつも座っている天鵝絨張りの椅子に掛けた王が、以前よりさらに顔色が悪く土気色になり、よく見ると頬はこけ、髪は濡れたように萎れているのを見つめた。
「少し二人で話がしたい」クレイトスが言った。
ジグリットは侍従を部屋から出し、扉を閉めた。円卓の上には、勉強していたときの教書が置かれたままで、王はそれを手に取って、興味深そうに眺めていた。そしてジグリットが戻ってきて円卓に着くと、王は少年の姿をまじまじと見た。
「砦では大変だったな」
クレイトスがそう口を開くまで、ジグリットは生きた心地もしなかった。もしかして、自分が本当の息子でないことがバレたのではないかと、戦々恐々だったのだ。
「いえ、ぼくはただ守られていただけです」
「それでいいんだ」王は笑った。「何のために騎士達がいると思っている。兵も騎士も、皆おまえを守るためにいるんだぞ」
ジグリットは頭を振った。「いいえ、父上」彼はまだ王をそう呼ぶことを躊躇っていた。「彼らはぼくを守るためではなく、タザリアを守るためにいるのです」
「おまえは優しい子だ」クレイトスは悲しそうに微笑んだ。「今日、わたしがここへ来たのは、おまえに大切なことを話すためだ。わたしの口から告げた方が、他人から聞くよりもいいだろう」
ジグリットは緊張しながら、王の言葉を待った。もし正体がバレているのなら、問答無用に殺されても仕方ない。それだけのことをしたのだ。クレイトス自身も気を張り詰めているのがわかった。王は長い時間をかけ、重い口を開いた。
「ジューヌ、わたしはもう長くない」
ジグリットは、一瞬それが聞き違いかと耳を疑った。
「医師は死病だと言っている」
しかし王の言葉ははっきりと、断言するように強く響いた。ジグリットは、自分の正体がバレていないと知っても、同じぐらい、もしかすると、それ以上に衝撃を受けた。その困惑は、振る舞いに表れた。彼は椅子を倒すほど激しく立ち上がり、訊き返した。
「し、死病って・・・・・・!? ですが、わかっているのなら、手術をするとか・・・・・・」
意味もなくジグリットは腕を左右に振り回し、辺りをきょろきょろと見回した。そこにいるはずもない医師がいて、否定してくれるのを待っているような動作だった。クレイトスは沈痛な面持ちだったが、逆に落ち着いていた。
「今さら手術を施しても、より悪くなるだけだとさ」
「そんな・・・・・・」
「おまえはまだ若い。おまえがタザリアの王としてやっていくために、最低限必要な事すら、わたしはおまえに教えていない」王は病よりもそのことを落胆している様子だった。
「父上が王です。ぼくは・・・・・・ぼくにはふさわしくありません」ジグリットは懸命に否定しようとした。
「・・・・・・・・・」
クレイトスは黙ってその様子を見つめ、そして荒い呼吸を繰り返す息子の戸惑いが消えるのを辛抱強く待った。
「おまえに話していないことが山ほどあるんだ、ジューヌ。そしてそれを話している時間さえ、あまり残されていないらしい」
杯を取り、クレイトスがお茶に口をつける。ジグリットは感情を制御できずに叫んだ。
「父上が諦めてどうするんです! そんな病、勘違いかもしれないじゃないですか! それに、治るかもしれないのに」
王は答えず、ただ立ち上がった。
「・・・ジューヌ、明日から謁見室に来なさい。おまえにわたしの補佐を命じる」
話が終わったとして、部屋を出て行こうとする王に、ジグリットはその背中に噛み付くように怒鳴った。
「ぼくは行きません!!」
「これは王としての命令ではない。父として・・・・・・おまえの父親として頼んでいるんだよ。わたしの補佐をしなさい。いいね」
一度だけ振り返り、クレイトスは眉を吊り上げ怒っている息子を見て、また悲しそうに微笑んだ。そして部屋を出て行った。扉が静かに、そっと閉められた。
「死病・・・・・・そんな・・・・・・」
ジグリットはその場に蹲り、絨毯の毛を毟り取るように掴んだ。強く強く。指が震え、それ以上の言葉が出なかった。また唖に戻ったかのように、彼は意味のない苦悶の呻きを漏らした。王に舞い込んだ苦難に、王子のフリをする者としてでなく、純粋にジグリットとして、驚愕し動揺していた。孤児である自分がこんな絶望的な気持ちになるのなら、本当の両親を持っている人達はもっと辛く悲しいのか、とジグリットは思った。だが、これ以上の悲しみなど、想像すらできなかった。




