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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
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 黄昏月(あき)の始めというのに、地下は昼間でも寒く陰鬱な雰囲気を(かも)し出していた。円形に建ち並んだ柱は松明の火影(ほかげ)を揺らめかせている。

「いるんだろう、道化師(カリカチュア)」ジグリットは天井から水滴が落ちるかすかな音しかしない地下室で彼女を呼んだ。

「いたらどうだっていうのさ、王子」不気味な(しわが)れ声が答えた。

 答えただけで、姿は見えない。ジグリットはあえて老婆を探そうとはしなかった。

「教えて欲しいことがあるんだ」ジグリットは前方の柱をまっすぐ見据えて言った。

 すると、彼が何についてかを説明する前に、どこからかまた声が聞こえた。

「大丈夫さ、今はまだ蛇は蛇同士、共喰いに忙しい」

 それがゲルシュタインの内部抗争を指していることにジグリットはすぐに気づいた。

「蛇が炎に喰いつくことはないって言うのか?」

「・・・・・・今はまだね」ようやく道化が姿を覗かせた。

 老婆はジグリットの右後ろの柱から真横の柱の裏へと移動して、またその柱の(かげ)から(かお)を出した。破れた黒い長衣(ローブ)がいつ洗ったのかもわからない腐臭を放って、離れていても臭った。ジグリットは鼻を(つま)んだ。

「失礼な王子だね。わざわざ親切にも出て来てやったってのに」

「そんな臭いを嗅がせる方が、失礼だと思うけど」

 言い返したジグリットに、老婆は気味の悪い笑みを浮かべた。

「口の減らない王子だね。まぁいいさ、大変なのはこれからだよ。せいぜい足掻(あが)いてみるんだね」老婆が何かを思い出したようにヒッヒッと笑い出す。

「何のことだ? 何が起こる?」

 老婆はさらにジグリットの右斜め前の柱の裏に移動した。黒い長衣の裾がずるずると濡れた石の上を別の生き物のように這いながら付いて行く。

「先のことを知るには、とてつもない苦痛が必要なんだよ。あたしゃ、もう充分苦しんだ。もう苦しみを背負うのは嫌だ嫌だ」老婆は頭を滑稽(こっけい)なほど振りながら何度も繰り返した。「痛いんだよ、それは。酷く痛むんだ。望んじゃいないさ。そうさ、あたしゃ一度も望んでないのさ。誰も強要なんてできないのに。酷いじゃないか。おまえは酷いよ。おまえのせいで痛むんだ」老婆はなぜか急に、しくしくと泣きまねを始めた。

 奇怪な老婆の態度にジグリットは恐る恐る訊ねた。

「痛いって、どこか痛いのか?」

 老婆はふぞろいな太さのしわしわの指を顔に押し当てて、まだ泣いている。

「ああ、そうさ。痛いのさ。もうずっとずっと痛いんだ。でもしょうがないんだ。魔道具使い(マグトゥール)は痛みを押し殺す術を知っている。知らないといけない。だってそうしなけりゃ、使えないからね。何だってこれよりはマシさ。でもおまえが来るから、あたしゃ、先を見なけりゃならない。だっておまえは王子だから。おまえの敵がおまえを見ているってことをあたしゃ、教えなきゃならない。そういう決まりなんだ。でも痛いんだ。これは辛いことだよ。おまえは知らないが、おまえのせいなんだ」

 ジグリットは話が半分も理解できなかったが、一ヶ所だけひっかかって訊き返した。

「敵が見てるってどういう事?」

「わかんないのかい、敵だよ。おまえの敵がすぐそばにいるってのに」

 老婆は悲鳴じみた甲高い声でキィキィ言った。ジグリットは辺りを見回した。もちろん、誰もいない。

「蛇の国には、バルダで最も優秀で最も残酷な魔道具使いがいるんだよ。ああ、怖い。ああ、恐ろしい。まだあんなに力が弱いってのに」老婆は小声で文句を続けている。

「ゲルシュタインに魔道具使いがいるなんて、当然じゃないか」

 それはもちろんいるだろう。どの国にも一人は専属の魔道具使いがいるからだ。ただし、タザリアは現在、魔道具使いを王宮においていなかった。王宮にいた魔道具使いギィエラを、ジグリットが国賊と見破って追放したからだ。魔道具使い協会(ギルド)は新しい魔道具使いをなかなか寄越してくれず、王は困っていた。

「ゲルシュタインにいる魔道具使いが敵だってことか?」

 老婆はようやく泣きまねを止め、伏せていた顔を上げた。

「魔道具には先を見透かすことのできるものがあるんだよ、王子。ただし恐ろしい代償と引き換えにしなけりゃいけないがね」

 その答えは疑問に対するものではなかったが、ジグリットは老婆との対話になれてきていた。老婆はいつも素直にジグリットの質問に答えるわけではなく、常にその質問を受けて、彼女自身が思いついたことだけを述べているのだ。会話が成り立たない原因はどうやらそこにあるようだった。

「・・・・・・あなたは魔道具使いなの?」

「そうだったときもあるし、今もそうだと言う人もいる」

「あなたはその恐ろしい代償を払ったんだね? こうして予言ができるんだから。だから辛くて痛いんだね」

「知見の王子よ、あたしが何を払ったか、おまえが知る必要はないんだよ。予言なんか当り障りのない占いと同じさ。外そうと思えば外すこともできる。そうして未来はどんどん様変わりしていくんだからね」

 ジグリットはさらに左の柱の裏へ移ろうとしている老婆を眸で追った。

「でも、あなたの予言は外れたことがない」

 老婆は柱と柱の間に立ち止まることはなかった。まるで怯えた栗鼠(リス)のように、柱の裏に取り(すが)った。

「あたしゃ、おまえに都合の良い未来だけを与えているのかもしれないよ。あたしが嘘をつかないからって、正直者とは限らないだろう」

「それでもあなたの予言が必要だ」

「予言に縛られて破滅した男を知ってるよ」老婆はまたジグリットに見えない何かを思い出したのか、可笑しそうにヒッヒッと笑った。そして忠告した。「魔道具はただの道具でもあるし、ときに生き物でもあるのさ。気をつけないと喰われちまう。喰われたらもう、お終いさ。全部お終いだ。あたしゃ、それを知ってるんだ」

 老婆はジグリットの左手の真横の柱へ移動した。松明が風もないのに揺れ、円形の空間に(まだら)の影が走る。

「おまえの一言が敵を作り、おまえの動作に味方が増える。よく覚えておおき。鎖蛇は猛毒を持っている。炎を喰らった蛇の群れに、おまえは失い、そして得るだろう。近いうちにわかることもあるさ。おまえはもう激流の中にいるんだからね。浮いたり沈んだりおし。そしていつでもどこへ行くかは自分で決めな」

 そう言うと、老婆はもう声だけになっていた。ずっと眸で追っていたはずの道化の貌はぼやけて、よく見ると柱の後ろの黒い壁の染みを見つめていたことに、ジグリットは気がついた。

「道化、ありがとう。蛇には注意するよ。それから・・・・・・魔道具使いにも」

 ジグリットの声だけが円形の空間に響いた。もう不気味な笑いも聞こえず、不穏な影もなかった。松明はまっすぐ上に向かって炎を立て、床を舐めていた影は微塵も動かない。

 言われたことを反芻(はんすう)しながら、ジグリットは地下を出た。眸を刺すような陽射しが彼を待っていた。何度も瞬きを繰り返して、ジグリットは徐々に光に慣れていこうとした。黄昏月(たそがれづき)の穏やかな陽光は、地下での暗い出来事をいつでも夢だったことにしてくれそうな気がした。だが、ジグリットの眉はきつく寄せられたまま、彼はアイギオン城の王の座所がある窓を見つめていた。


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