第五章 黒雲を瞻る日 1
第五章 黒雲を瞻る日
1
数日が経ち、着任したばかりの新米兵を含め、ジグリットも砦にすっかり慣れた頃、それは起こった。そのときジグリットは、夕餉を終えて自分の部屋へ戻っていた。ふかふかの寝台に転がって、横の椅子に腰かけたファン・ダルタと、のんびり話をしていたところに、廊下を走りながら叫ぶ兵の声が聞こえてきた。
ファン・ダルタは野生の獣のような敏捷さで椅子から躰を浮かすと、次の瞬間には廊下へ出ていた。ジグリットも慌てて追いかける。
「ああ、こんな所にいらしたんですか!」
廊下の奥にあるファン・ダルタの自室へ向かっていた兵が振り返り、また戻って来るのが見えて、ジグリットは部屋に素早く引っ込んだ。新米兵と思われているのに、士官室で冬将の騎士と一緒にいたなんてことがバレたら、自分の正体を詮索してくれと言っているようなものだ。
ファン・ダルタはジグリットが隠れたのを知り、後ろ手に扉を閉めた。
「なんだ、騒々しい。また喧嘩か?」
騎士が眉を寄せると、兵士は「それはそうなんですが・・・・・・」と言い難そうに言葉を濁した。
「今度は誰と誰だ!? 言っておくが、くだらない理由だったら承知しないぞ」
「ハァ・・・それが・・・・・・料理夫と小姓が・・・・・・」
扉に耳をつけて二人の話を盗み聞きしていたジグリットは、内容を知って眸を見開いた。冬将の騎士と兵士はとにかく食堂へ行くつもりなのか、足音が遠ざかって行く。ジグリットも廊下の物音が消えると、すぐに部屋から飛び出した。
――いずれこういう事が起きるかもしれないと思っていたのに・・・・・・。
――ここのところ、ファン・ダルタとまた仲良くなれたからって、浮かれてすっかり忘れていた。
ジグリットは階段を駆け下り、食堂前に集まった兵士達の集団に驚きながらも、無理やりその群れの中へ躰を捩じ込んだ。食堂の中はもっと酷い有様だった。遅まきながら食事をしていた兵士達も立ち上がって、やいのやいのと騒いでいる。
厨房へ続く通路の前だけが、ぽっかりと空いていて、そこに巨体の料理夫が真っ赤な顔でがなり立てていた。その向かいには、細い棒切れのような少女が両手で汚れた粗布の腰巻をぎゅっと掴んで立っている。先にやって来た冬将の騎士がようやくそこまで割り込んで行き、料理夫に話しかけるのが見えた。ジグリットもぐいぐいと兵士の隙間を縫ってそこへ向かう。聞こえてきたのは、料理夫の声だけだった。
「薄汚い餓鬼めッ! 前々からこいつは信用ならねぇと思ってたんだ!!」
ジグリットがなんとか近くに到達すると、冬将の騎士ではなく、体格の良い別の騎士が少女と男の間に入っていた。
「気のせいじゃないのか? 誰かの食べ残しに見えるがな」
しかし頭にきている料理夫は聞く耳を持たなかった。
「いいや、こいつが盗んだんですよ! おれは見ましたからね。こいつはその麺麭に、下げてくるはずの皿に載ってた余りもんの肉を挟んで、衣嚢に入れたんですよ。盗人めがッ!」
料理夫は持っていた料理用の鉄の杓子を少女の頭部に投げつけた。
「やめろッ!!」
冬将の騎士が慌てて料理夫の腕を掴むと、男は頭を押さえてうな垂れている少女を今度は指差した。
「砦の中のもんは、みんなタザリア王のものでしょう。王から盗みを働くたぁ、赦されませんぜ。盗人は極刑だ。殺してくだせぇ!!」
ジグリットからは、少女の背中しか見えなかった。しかし少女が膝をつき、両手を合わせて料理夫を見上げたとき、ジグリットにも彼女が誰かわかった。
「赦してください、赦してください。ちょっとした気の迷いなんです。お腹が空いて・・・・・・だから・・・・・・。残りもんだし、いいかと思っただけなんです」
少女の声は聞き覚えのあるものだった。アイーダに違いない。ジグリットはなんとかしたいと思ったが、今の自分の身分を考えると無理だった。新米兵ごときが、入って行ってどうにかできる問題ではない。冬将の騎士を見ると、彼は眉間に皺を寄せ、大きく息を吐いていた。
「おまえはこんな子供を殺したいのか?」ファン・ダルタは呆れたように言った。
「子供でも大人でも、盗人には違いありませんぜ。こういうやつらは一回赦すと、すぐに調子に乗るんですよ。二度とそんな気が起きないよう、手痛い仕打ちをしてやんねぇといけません」
料理夫の態度は硬化したままで、その前に跪いている少女は泣きながら命乞いをしている。
ジグリットは冬将の騎士がなんとかうまく治めてくれればと思ったが、体格の良いもう一人の騎士が口を挟んだ。
「仕方ないんじゃないか? 他の小姓達の手前もある」
「そうでしょう、決まってまさぁ」料理夫はすでに裁定が決まったかのように、醜く笑っている。
そのとき、ジグリットの背後から誰かが腰の辺りを押して、強引に前へ飛び出した。
「お願いだで、姉ちゃんを助けてやって。お願いだ!」子供らしい甲高い声が響いて、食堂内は静まり返った。「おらがいけないんだ。またあの美味しいお肉の麺麭が食べたいなんて言っだから」アイーダの弟だった。
ジグリットは胸が締め付けられるような思いで、少年が跪いているアイーダに抱きつくのを見た。
「赦してくれろ。赦してくれろ・・・・・・」
ぺこぺこ頭を下げる少年を、料理夫は太い腕で剥がし取り、大声で「極刑だ!」と叫んだ。
ジグリットの周りにいる兵士達からも、「まぁ仕方ないんじゃないか」「盗みが横行すると困るしな」と料理夫を支持する声が聞こえ始める。
砦の責任者である冬将の騎士は、もっと簡単な刑罰で済ませようと思っていたらしいが、いまやそれでは治まりがつきそうになかった。もう一人の騎士が「じゃあそういうことで」と少女を無理やり立たせて、外へ連れて行こうとする。
ジグリットは我慢できずに、真横を通ろうとした少女の腕を掴んだ。少女が足を止めたので、騎士もジグリットに気づいて、眸を瞠った。
「子供相手に、あまりにも残酷じゃないですか。それでは、ぼく達が敵対しているゲルシュタインの蛇共と同じだ」
騎士は言葉に詰まって、ただジグリットを見下ろしている。しかし正体を知らない兵士達は、一気にジグリットへ罵声を浴びせた。それを無視して、ジグリットは続けた。
「せめて人道的立場から、彼女に情状酌量の余地を与えてください」
そこで初めて冬将の騎士は、周りの兵を後ろへ下がらせて、体格の良い騎士から少女を自分の方へ引き寄せると言った。
「彼が言うことにも一理ある。この子に活路を一つは残すべきだろう」
体格の良い騎士が不満そうに、だが仕方なく頷く。
「・・・だったら、兵五人と戦わせて、彼女が勝ったら免責にしてやるというのはどうです?」
冬将の騎士が了承する前に、兵士達がどおっと雄叫びを上げて、自分が戦おうと次々に手を挙げた。
「もちろん、彼女が負けたらその場で処刑される。これなら双方、文句はないでしょう」
勝手な言い分をする騎士に、ファン・ダルタはジグリットを、そして自分の側で震えている少女を見下ろした。すでに兵士達はそれが決定されたことのように、建物の外へ流れるように出て行く。退屈な砦の日々に飽き飽きしていた彼らにとって、これは滅多にない見世物に違いなかった。
やむを得ず、冬将の騎士はアイーダを連れて外へ向かう。その片方の腕には弟がしっかり抱きついていた。二人はもう自分が死ぬものだと決めてかかっているのか、嗚咽を漏らして泣き続けている。
砦の外は松明の火で明るかったが、橙色の淡くぼんやりとした光は、少女をさらに失意の底へ、兵士達をさらなる興奮へと導いていた。ジグリットが砦に二つある建物のちょうど中央の広場に来ると、すでに騒ぎに集まった他の騎士が、他の兵士が邪魔しないよう踵で地面に線引きしていた。そこへ少女が入れられる前に、ジグリットは駆け寄り声をかけた。
「アイーダ、とにかく剣を振るんだ。当たらなくてもいい、近寄らせるな」
少女の顔は絶望に打ちひしがれて土気色になっていた。しかし真っ赤な眸で、じっとジグリットを見ると、少女はこくんと頷いた。弟は姉から離されて、線の外で震えて立っていた。
すぐに線引きされた枠の中に、五人の名乗りを上げた兵士達が入ってくる。五人とも、少女に正義の制裁を与えることを嬉々としているのか、にやにやとしまりなく笑っている。五人全員が、剣帯から自分の剣を抜き、乱暴に数回振り回した。
少女の方は冬将の騎士に借りたのだろう立派な黒い剣を握ったまま、刃先を地面に落として茫然としている。
「始めッ!」冬将の騎士の合図と共に、男達が怒号を上げて少女に向かって行った。
「きゃあああぁぁぁッ!!」アイーダは重い剣を引き摺りながら、線引きされた枠の端から端までを走って逃げる。
小柄な少女に刃先を当てるのが難しいのか、背中に斬りつけようとした男の剣が宙を裂いた。兵士達が線の外側から、大声で笑い立てる。
アイーダは振り返り、次の男の剣が自分の頭上に掲げられているのに眸を大きく開いて、棒立ちになった。勢い良く振り下ろされた刃に、少女がよろけて脇に倒れる。
またしても少女に剣が当たらなかったので、観客はさらに盛り上がって、拳を振って誰が仕留めるかを口々に予想し合った。
アイーダは剣を持ち上げることすらできなかった。ただ避けるだけで精一杯だった。ジグリットはとても見ていられず、いつの間にか自分の腰に抱きついていた弟を引き剥がすと、線の中へずかずかと入って行った。
「おい、なんだ貴様! また邪魔する気か!」
「そうだそうだ、新米は下がってろ!」
五人の兵だけでなく、周りの兵士達もジグリットに悪口雑言を吐き捨てた。だがジグリットは怯まず、剣を地面に突いて立ち上がろうとしているアイーダの許へ行き、彼女に手を貸した。
「大丈夫だ、弟のところへ行け」
ジグリットは冬将の騎士の黒の剣を地面から抜き、アイーダが線の外へ出るのを見ると、剣先を五人の男達に向けて言った。
「ここからは代わりに、ぼくが戦おう」
その声を聞いて、戦慄したのは騎士達だった。砦中の人間が、いまや集まっていた。近衛隊の隊員二人とフツもいたが、少女がなぜ兵士に追われていたのか知らないままだった。もちろん、王子が代わりになると言って出てきたことに驚きはしたが、それが処刑を賭けた戦いだとは知る由もなかった。
その場にいた八人の騎士達は、ただおろおろしながら、責任者であるファン・ダルタが止めると信じて、全員彼を見ていた。しかしファン・ダルタは黙ったままだった。
「ファン・ダルタ、止めてください。彼が殺されてしまうわ」
ドリスティは冬将の騎士が動かないので、止めさせようと線の中に入ろうとした。しかし彼はその腕を取って、引き戻した。
「大丈夫だ。信じろ」
ドリスティはそう言われても、心配で唇の震えが止まらなかった。彼は王子なのだ。ここでもし王子が死ぬようなことになったら、その場にいた騎士は全員、自害しなければならないだろう。いや、それだけでは済むまい。タザリアの弱体化は他国の侵略に繋がる。戦争になる。
不安は助長されるばかりで、ファン・ダルタがなぜこんな莫迦げた事を止めさせないのか、ドリスティにはわからなかった。信じるのは簡単だ。しかしどんなに信じたとしても、いつでも望む結果が得られるとは限らない。
しかし彼らが危惧している間にも、ジグリットに向かって兵士の剣が振り下ろされていた。ジグリットは線の角に立って、一人ずつ相手にしていた。彼らは己の成果を過信しているのか、同時に仕掛けてこようとはしない。一人目の剣を弾き返し、素早い躰の捻りで浅く胴に斬りつける。男は鎖帷子を着ていたが、衣服を裂かれたことに驚いたのかその場に倒れると、線の外に転がり出た。
すぐに二人目が向かって来る。同じぐらいの体格の小柄な兵士だったが、ジグリットの方がより速く、より正確に動けた。一人目と同じように浅く腿に斬りつけると、彼も線の外へ飛び出して行った。
三人目はさっきの倍はある大男だった。しかしジグリットは男が剣を振りかぶる前に、背後に回ると、脹脛をまた浅く斬って、戦意を奪った。四人目、五人目ともなると、彼らにもジグリットがかなり腕の立つ兵士だとわかったらしく、二人は同時に斬り込んで来た。
右手の剣を避けたものの、左手は避け切れずに、ジグリットの頭に鈍い衝撃が走った。刃の方向が逸れたのか、平手打ちで助かったが、左のこめかみが切れてパッと鮮血が散った。眸に入った血を拳で拭い、今が好機とばかりに斬りつけてくる二人の刃先をなんとか避ける。下がれるだけ下がったせいで、線の縁に立ったジグリットを、周りを囲む兵士達が逃げないように腕を突き出して内側へと背中を押してくる。
ジグリットはいい加減、腹が立ってきて、四人目が斬り込んできたとき、ゆらいだ影のように足先だけで素早く移動して、勢い余った男を兵士達の中へ突っ込ませた。死人は出なかったが、おかげで刃先に当たった一人の兵士が、腕を怪我して喚き出し、その一帯は別の喧嘩が始まってしまった。
それは騎士に任せて、ジグリットは最後の一人と向き合っていた。五人目の男は、ジグリットが強いことをもう充分すぎるほど理解していて、線の中でじりじりと剣を構えたまま動こうとしなかった。
ジグリットは初めて自分から向かって行くため、一度大きく深呼吸をすると、剣を構え直した。すると、松明の滲んだ明かりに照らされた黒い剣が、どうすればいいのかを教えてくれたように思えて、ふっと気が楽になった。数歩で男の間合いに入ると、ジグリットは剣を振り下ろした。当たれば確実に死ぬような猛攻だったが、男は一撃目を剣で受けた。そのとき、男の顔に安堵の表情が浮かび、次には悲痛な苦悶の顔へと変わった。男は地面に転がり、衝撃のあった腹部を見下ろしたところで、首に剣先をぴたりと当てられた。
「降参しろ」ジグリットの冷淡な声に、男はうな垂れた。
さっきまでジグリットを揶揄していた兵士達の声は、いつの間にか喝采に変わっていた。ジグリットは男が蹴り飛ばされた腹部を押さえているのを見て、「強すぎたな、すまない」と謝って立ち上がるのに手を貸した。
周りにいた兵士達はこれが何の戦いだったのか、すっかり忘れたように、ジグリットの勝利を眸にすると、其処彼処で彼の戦いぶりに驚きと讃嘆の声を上げている。「騎士並みに強いな」「五人をいともあっさり完封だぜ」という声に混じって、「一体、ありゃどこの持ち場の新米兵だ?」「見かけない顔だな。おまえ知ってるか?」と訝しむ者も出てきて、ジグリットは慌てて線の外へと出た。
八人の騎士達は兵士達が追求する前に、持ち場に戻るように怒鳴りつけ、急いで彼らを追い払った。兵士達はすぐに仕事や短い夜半の遊びにと、てんでばらばらに去って行った。
ジグリットと戦った五人の兵士も立ち去り際に、ジグリットに「参った参った」などと軽口を叩いて行く。残ったのは騎士達と料理夫、それにアイーダと弟だった。
「これでもう文句はないだろう」冬将の騎士が不満そうに口を歪めている料理夫に言う。
すると料理夫は激しく首を振った。
「ちょ、ちょっと待ってくだせぇ。途中からこの小僧が邪魔立てしたんですぜ。約束が違いまさぁ」
ジグリットは冬将の騎士と料理夫の間に割って入り、赤ら顔の脂ぎった巨体の男を睨み上げた。
「ぼくは邪魔したつもりはないぞ。おまえの代わりに兵士が五人名乗りを上げ、代理で戦った。アイーダの代わりにぼくが出たって、不当ではないだろう」
ジグリットは淀んだ眸をした料理夫が、どれほどアイーダの血を望んでいたのかを思うと吐き気がするほど腹が立った。
「大体、自分で戦いもしないで、他人に決着をつけてもらおうとした時点で、すでに文句を言える立場でもないだろう」
その言葉に料理夫はさらに顔を赤黒くして、憤怒の形相でジグリットの胸元を掴み上げた。
「なんだと、この餓鬼! 新米兵のくせにおれに意見する気か!」
ジグリットは足先がなんとか地面につくだけだったが、負けずに言い返した。
「おまえのように弱い者に偉ぶるよりは、生意気な方がマシだ」
料理夫は掴んでいた腕を引き寄せたかと思うと、五倍はある太腕でジグリットを突き飛ばした。ジグリットが地面に倒れ、驚いた騎士達が慌てて駆け寄ろうとするのを、冬将の騎士が押し留める。
冬将の騎士は料理夫に「そこまでだ! もういい、行け!」と凄みのある一声で脅すように言うと、食堂へ急き立てた。料理夫は起き上がろうとしているジグリットの前に唾を吐き、低く罵りながら去って行った。
ようやく諍いが終結した様子を見て、騎士達は全員が、ハァ・・・・・・と思い切り虚脱した状態で息をつく。ジグリットは叱られる前にさっさと部屋へ逃げるべきだと思っていた。しかしアイーダと弟の少年は、ジグリットがこそこそ部屋に逃げようとするのを捕まえて、何度も何度も頭を下げて礼を言い、二人が去った後には、ジグリットはまたしても騎士達に拉致され、士官室へ連れて行かれ、そして一晩中、長々と説教されたのだった。




