5ー3
ゲルシュタイン帝国との国境沿いにあった村は、よくタザリアの兵とゲルシュタインの兵がかち合い、彼らは村で殺戮を繰り広げた。どちらが勝っても負けても、村人に益はなかった。時に村人までが犠牲となることもあった。勝った方は村の少ない食糧を奪っていったり、村が自分達の国のものだと主張した。
ファン・ダルタの父は、その争いをやめさせようとしていた。彼はゲルシュタインの兵を説得しようとした。そして食い違いから、父はゲルシュタインの兵を殺してしまった。それから村の人間の態度ががらりと変わった。彼らは報復を恐れた。そして、その返礼はすぐに訪れた。
三日後、父親は身包みを剥がされた状態で、村に唯一あった井戸の中に浮かんでいるところを発見された。ゲルシュタインがそれで赦してくれたとは、村人は信じていなかった。しかし二年もの間、何事も起こらなかった。母親は病で伏せていたが、ファン・ダルタは兵になると告げた。家族は反対しなかった。
ファン・ダルタがチョザへ行って半年後、村はゲルシュタインに壊滅させられた。彼の母と弟は殺されたとだけ聞かされた。
――恨まれても仕方がない。
暗闇の中で騎士はそう思った。それでも、母と弟だけはわかってくれると信じていた。なのに、亡霊の中には家族三人の姿もあった。騎士は打ちのめされた。それから彼は眠れなくなった。この村へ何度も足を運び、夜が更けるまで、亡霊を斬りつけていたこともある。しかしそんなことは無駄でしかなかった。
――このまま彼らと冥府に行くだけのことを、おれはしてきたはずだ。
今までに何人の人間を殺めたのか、彼自身にもわからなかった。何十人、何百人だろうか。そしてその人間を叩き斬る瞬間に、同情や憐憫を感じたことは一度もなかった。剣を突きつけてくる者は、すべて敵であり、斃さなければ死ぬのは自分だったからだ。兵とは、騎士とはそういう職業だったのだ。
――亡霊が迎えに来たのは、当然なのかもしれない。
もうファン・ダルタは岩を登っているのか、本当に掴んでいるのかもわからなくなっていた。どっぷりと深みにまで泥に埋まったように、動きが緩慢になり、抜け出せなかった。重苦しい哀しみが自分の内から湧き上がるのに、身を委ねたかった。しかし、頭上で誰かが騎士を呼んでいた。
一瞬、ファン・ダルタはそれが懐かしい記憶の底に沈んだはずの弟の声に思えた。
「ファン! ファン・ダルタ!」
しかし聞き覚えのあるその声は、弟の幻影を掻き消し、記憶を掻き混ぜ、ジグリットへと姿を変えた。母と弟を亡くし、やがてほんの少し前まで弟のように慕っていたジグリットの死を聞かされ、もうファン・ダルタには失望しか残っていなかった。だが、騎士はゆっくりと眸を上げ、確かにジグリットが自分の方へ手を差し出しているのを見た。
――ジグリットは死んだ。彼もまた亡霊だ。
騎士は寂しく少年が自分を呼ぶのを見ていた。そして疑問を持った。
――ジグリットは話せない。では彼は・・・・・・ジューヌ王子?
それは絶対に有り得ないことだった。
――そうだ。有り得ないじゃないか!
騎士は怖気を忘れて、頭を回転させた。
――ジューヌ王子は一人でここへ来たのか?
――たった一人で馬に乗って・・・・・・ゲルシュタインとの境が近いこの場所へ?
彼は渇ききった喉の奥で、何かとてつもない真実がこみ上げるのを感じた。それはほぼ絶望と紙一重の恐ろしい事実だった。
ファン・ダルタは亡霊の冷たくじめじめした腕を掻い潜って、王子の手を取った。力強い腕に引っ張られると、騎士は岩の上に立っていた。黒い影達が下でもがいている。隣りの王子を見ると、彼の躰の表面が白く輝いていた。亡霊達はこの光に近づけないらしい。
――ジューヌ王子は、こんなに強い人ではなかった。
騎士は真実を受け容れたくはなかった。ジグリットには生きていて欲しかった。それは本当だ。だが、このようなことは赦されないことだ。
「ジッ・・・・・・」騎士は彼の本当の名を呼ぼうとした。しかし、その白い輝きを前にファン・ダルタの意思は揺らぎ、少年の凛とした眼差しが自分を捕らえると、その中に潜む利発な生命に彼は息を呑んだ。断罪しようする意識が、脆く崩れ去るのを彼は感じた。自分が何をしようとしているのかを考えた。できれば自分がまだ夢を見ていて、これが勘違いであって欲しいと願った。
「ほら、村の向こう側を見てよ。ちょうど太陽が沈む。山が光っているみたいだ」ジグリットが言った。
騎士もそれを眺めた。小さな盆地の奥にある山の稜線が、真っ赤な一筋の線を浮き立たせていた。しかしそれよりも、隣りにいる少年の方が綺麗な光を放っていた。地面に眸を下ろすと、亡霊の姿はなかった。纏わりつくようだったねっとりとした空気が、夕暮れの爽やかな風に変わっていた。騎士は黙って景色を見ている王子と、自分のことを考えた。
――おれが大事にしなければならないことは、何も変わっていない。
それだけが真実だった。
――この村のような悲劇を起こさないために、おれは戦い、敵を斃す。陛下の次代がどうなるのか、おれには想像ができない。でもそれはリネア様でもジューヌ様でも同じことだ。
――むしろ彼であれば、おれを救ったように、王として苦しんでいる人々を救うことができるかもしれない。
ファン・ダルタは覚悟を決めて告げた。
「ジューヌ王子、あなたが王子である限り、あなたがタザリアである限り、わたしが騎士であることに変わりはありません。今一度、挫けそうになったわたしを赦していただけるなら、これから、わたしの忠誠はすべてあなたのものです。あなたが仰ったように、わたしの死さえ、あなたのものです」
ジグリットは驚いた顔で騎士を見上げた。
「あれはおまえを奮い立たせたかっただけだ」ジグリットは恥ずかしそうに頭を振った。「あんな尊大な発言は忘れてくれ。すまなかった」
その姿はジューヌ王子のようでもあり、ジグリットのようでもあった。しかし騎士はもう見かけの姿に惑わされなかった。魂で感じたのだ。彼こそが望んでいた王子だと。
「わかりました。では、わたしが亡霊相手に震え上がっていたことも、忘れていただけると嬉しいです」
真面目に言った騎士に、ジグリットは照れたような笑いを浮かべた。
「ああ、お互い不必要な過去は消し去ろう」
それがどういう思いから出た台詞にしろ、冬将の騎士にとっては重い言葉だった。彼はできることなら、本当に消し去りたいと思った。
「そろそろ戻りましょう。あなたがいないことに気づいたら、騎士達は大騒ぎですよ」
ファン・ダルタに言われて、ジグリットはそうなったところを想像して、顔をしかめた。王子という立場を隠して砦へ派遣されたのに、そんなことになったら、すぐさまバレてしまうだろう。それは困る。今はまだ王子という身分ではなく、ただの新米兵として自由の身でいたかった。冬将の騎士が馬を繋いでいた場所へ向かうと、ジグリットも急いで黒毛の許へ走って行った。
砦に戻ると、冬将の騎士の言ったことは本当になっていた。正門の前に六人の騎士が馬に乗った姿で、王子を捜しに出るところだったのだ。外壁上部を警備している兵士達も、何事かと南門を見下ろしている。
騎士達はファン・ダルタを捜しに行くという名目で外へ出ようとしていたらしいが、ジグリットが冬将の騎士と共に戻ると、急いで二人を士官室へ連れて行った。ジグリットはそこで彼らにこっぴどく叱られたが、ファン・ダルタが一緒だったので、適当に話を合わせて砦の周辺をうろついているところを出会ったと答えた。もしファン・ダルタを追って、ゲルシュタインの国境近くにたった一人でのこのこ出て行ったことがわかれば、騎士達は怒るどころか青褪めたあげく、すぐにジグリットをチョザへ送り返そうとしただろう。
小一時間も説教された後、ジグリットはさすがに肩を落として食堂へ向かった。ちょうど夕食時で、兵士達もぞろぞろと食堂へ向かっていた。冬将の騎士もついてきていたが、ジグリットが食堂へ入って行ったときには、彼の姿は消えていた。
冬将の騎士は一人、正門へと戻っていた。村の方角は闇に包まれている。
ファン・ダルタは耳を澄まし、過去の声を聞こうとした。しかし風が砦の外壁周辺を吹き抜ける音しか聞こえず、父親がどういう声で話したのか、もう思い出せないことに彼は気付いた。十歳だった弟の顔も、今はもう色褪せ、子供の頃に見た怖い夢のように、それは鈍い痛みしか齎さなかった。騎士は俯き、壁の向こう側の暗く落ち込んだ井戸の底のような黒い曠野を見つめた。かつてあった村の瓦礫の中に立っていた亡霊達の姿もなく、彼は小さく溜め息をついた。風が外衣を翻し、騎士は寒いと感じた。そして空腹だとも。
冬将の騎士は、明るく松明が灯された砦の方を振り返った。温かそうな建物の入口に、小柄な一人の少年が立っていた。ジグリットは黙ってファン・ダルタが戻って来るのを待っていた。騎士は歩き出し、気恥ずかしそうに片手を上げ、少年が同じように手を振って微笑むのを見た。背後に巣喰う闇の中から、亡霊達はもう彼を引き止めなかった。
その日の晩餐は、ファン・ダルタにとって、ほぼ半年ぶりに落ち着いたものとなった。彼は今までまともにしていなかった仲間の騎士との話に興じ、そのとき初めて、近衛隊のフツがなぜ砦へ送られてきたのかを知った。王の伝令では、フツが刑罰のために砦へ送られるとは書いていなかったのだ。しかもその内容が、ジューヌ王子に対してかけた嫌疑だったことが、彼には衝撃だった。
もう少しで自分も同じ状況に陥っていたかもしれないのだ。ただ、その話を聞いて、ファン・ダルタは確信を堅固なものにしただけで、ジューヌ王子の正体については、自分の考えに疑いを持ってはいなかった。
近衛隊長のフツは、礼儀を軽んじる不遜なヤツだが、直感には定評があった。実際、直感と彼は言っているが、ファン・ダルタはそれが類稀なる洞察力の賜物だと思っていた。フツは自分でもそうと気付いていないが、ジグリットとジューヌ王子との微妙な違いを見つけたのだ。それは厄介なことだった。
――ジグリットもそう思っているだろうな。
ファン・ダルタは、兵士達の乱雑で騒々しい席の中で食事をしている王子に眸をやった。少年はくすんだ鉄の匙で野菜汁を啜っていた。その表情には今は年相応の、子供っぽい腹を満たす喜びだけが表れていた。




