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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
80/287

5ー2

「王子、わたしはもうダメです」騎士は頭を垂れたまま言った。

 ジグリットは立ち上がった騎士の膝頭を蹴り飛ばした。外衣(マント)の下は軽装で、膝当てもついていなかった。ジグリットの真鍮(しんちゅう)(びょう)がついた長靴(ブーツ)の一撃に、ファン・ダルタは痛みに顔を歪め、崩折れそうになった。しかしそれ以上にジグリットは腹が立って仕方がなかった。

 ――これが冬将の騎士だと! こんな情けないヤツが!

 ――ずっと会いたかった騎士が、こんな・・・・・・こんな・・・・・・。

 憤りのために唇を血が滲むほど噛み、ジグリットは怒りをなんとか腹の下で抑えようとした。それはかなりの労力を要したが、ジグリットは肩を上下して激しく息を繰り返し我慢した。その間も騎士は外衣を掴まれたまま、うんともすんとも言わずに俯いていた。うな垂れた彼はまるでジグリットの知る騎士とは別人だった。ジグリットは外衣を離した。

「ダメって何がダメなんだ。具体的に話してくれないとわからない」

 騎士は聞いたこともないような吐息交じりの小さな声で答えた。

「わたしはもう恐怖に負けたのです、王子」

「おまえほどの男が、今さら恐怖に負けただと?」

「ですが、そうなのです。わたしにとって、この地は呪われた場所です。この瓦礫の下に、わたしの・・・・・・」騎士は声を詰まらせた。そしてどこか遠く、村の端の方にある瓦礫の家の戸口らしき場所を見据えた。「わたしの母と弟が埋まっているのです」

 ジグリットはファン・ダルタの眸がしっかりと何かを捉えているのに気づき、忘れていた異様な空気を思い出し、ぞっとした。彼はじっとその何もない場所を見つめたまま口を開いた。

「わたしには、他の者に見えないものが見えるのです。この地で、この村で死んだ人々が、亡霊(ぼうれい)が、わたしを(うら)む彼らの姿が見えるのです」

 ジグリットは瓦礫の残骸に眸を向けたが、やはり何も見えなかった。

「彼らはわたしを毒し、やがて殺すでしょう」

 冬将の騎士の言葉に、ジグリットは彼が芯からそう思っている響きを感じた。怒りが完全に消え、ジグリットは冷静さを取り戻した。

「その亡霊は、ぼくのことも見えるのか?」

 騎士は亡霊から眸を離して、王子を見上げた。

「ええ、彼らはまだ離れていますが、すぐに寄って来て、あなたにも触れるでしょう。あなたは寒く感じるかもしれません。幾人かの兵は、砦で彼らと接触したとき、寒いと言っていましたから」

「そいつらは、ぼくも殺せるのか? おまえを殺すように」

「いいえ、王子。やつらが殺したいと思っているのは、今のところ、わたしだけのようです。でも、ここから立ち去った方がいいでしょう。人数が増えてきました。さあ、戻りましょう、王子」

 ジグリットはどうしたら、彼を亡霊から解き放てるのかわからなかった。わかっていたことは一つだけだ。このままでは、本当に冬将の騎士はその称号を剥奪され、騎士団から除名されるだろう。その亡霊がいるのかいないのか、ジグリットには判別できなかったが、それは大して重要ではなかった。騎士が信じているのなら、それは確かに彼を(むしば)んでいるのだ。

 ジグリットはその場から立ち去ろうとしたファン・ダルタを追って、村を囲っていた石垣の残骸、巨大な平たい瓦礫の横を通り抜けようとした。しかしジグリットはそこで思い留まり、その岩盤を見上げた。それは高さが五ヤールはある切石を組んだもので、今は斜めになって地面に突き刺さっていた。ジグリットは手で掴まり、そこに身軽に登って行った。

 後を付いて来ているはずの王子が遅いので振り返った騎士は、姿を見つけて思わず大声を上げそうになった。しかしすぐに思い直した。もし大声に王子が驚いて、その岩から落ちたら、大怪我をするかもしれない。騎士は急いで駆け戻り、真下に立った。

「王子、何をしているのです! 降りてください!」

 ジグリットは頂上まで登りきり、そこに立ち上がった。五ヤールの高さは、村のすべてを見渡せるほどで、ジグリットは一瞬、眩暈(めまい)を起こしそうになった。

「お願いです、王子。降りてきてください!」

 必死に下から呼んでいる騎士は小さな子供のように見えた。現に騎士は震えていた。その眸に、村の中心からまた黒い影のような、不気味な存在がやって来るのが見えていたのだ。やつらは着実にこちらへ向かっている。

「王子、後生(ごしょう)ですから、降りてください!」

 冬将の騎士の(おび)えた様子を、ジグリットはあえて無視した。彼は自分を置いては逃げないだろう。そうだと信じたかった。

「おまえもここに登って来い!」ジグリットは冷ややかな顔つきで彼に言った。「ぼくを降ろしたいのなら、おまえがここに来い」

「・・・・・・王子」騎士はそれどころではないのか、村の方へ何度も眸をやった。

 ジグリットは岩の上から叫んだ。

「おまえは黒き炎の一族を守ると明言し、騎士になったんじゃないのか! それは口先だけの偽りか!」なんとか彼の意識を自分に向けさせたかった。亡霊ではなく、ここにいる自分に。「亡霊に殺されるなら、ぼくを守ってから殺されろ! ぼくが肩に背負っているものが何なのか、おまえが知らぬはずはないだろう! ぼくが次代の王となる男なら、おまえは一体なんだ!」

「・・・・・・わたしは・・・・・・わたしは、タザリアの騎士です」

 ファン・ダルタは亡霊ではなく、王子を見上げた。黒い影がじわじわと王子の背後に迫り、今にも岩に飛び移りそうだった。しかしそれ以上に、彼は自分が騎士であることを思い出していた。そしてそこに立っている少年が何者なのかも。

「ならば、その命を()してもぼくを守れ。おまえが勝手に死ぬことは赦さん。おまえが敵に殺されることも、おまえが負けを認めることも、ぼくはおまえの何一つ自由にはさせないぞ。おまえを縛る亡霊さえ、タザリアの地にある以上、ぼくのものだ。何を怯える必要がある。おまえの命はぼくのものなんだぞ。おまえのものじゃない。いつかぼくがおまえに死を赦したとき、初めておまえは死を知るんだ。それまでおまえは死ぬことはない。さあ、ここへ来て、ぼくを降ろしてくれ。そして愚かな亡霊共に別れを告げろ」

 ファン・ダルタはぎこちない動きで、一歩を踏み出した。亡霊達が王子の乗っている岩をよじ登っているのが見えた。

「死者になど、おまえを殺すことはできない。おまえに死を与えることができるのは、ぼくだけだ」

 傲慢に言い切った王子に、騎士はタザリアのためなら死んでもいいと誓っていたことを思い出した。そしてこの王子こそがタザリアそのものなのだ。だとしたら、ここで王子だけは助けなくてはならない。たとえ自分が死んでも。

 すでに亡霊は王子を取り巻いていた。騎士は亡霊達が王子の周りで(わめ)いているのを見ていた。彼らは王子に危害を加えたがっていた。なんとかして、王子を冥府(めいふ)へ連れ込もうと、彼の手を取ろうとさえしていた。しかし誰も王子の(からだ)に触れることはできなかった。王子は光り輝く王者の魂でできているようだった。

 ファン・ダルタが岩の突起に手をかけると、亡霊達は今度は騎士の方へ手を伸ばした。彼は剣でそれを斬り裂こうとしたが、やつらは不気味に(わら)うだけだ。その黒い影は斬ってもすぐに復活することができた。

「ファン・ダルタ」王子が彼を呼んだ。「おまえはぼくに手を伸ばすんだ。その剣を腰に仕舞い、ぼくをここから降ろすんだ。それ以外のことに気を取られるな」

 しかしそれは無理というものだった。ふらふらと寄って来る亡霊達は、騎士に触れることができるからだ。剣を腰になど、ファン・ダルタには怖くてとてもじゃないができないと思えた。しかし彼は剣帯にそれを収めた。

 唇が乾ききり、岩を掴む手が汗で滑った。亡霊が騎士に触れる。一人、また一人。次々と彼らは騎士に手をかけた。岩の半ばまで登ったときには、すでに騎士自身が黒い亡霊の塊となっていた。

 騎士には王子が見えなかった。岩の上に立って、自分を待っているはずの王子の姿が見えなかった。視界は暗く闇に包まれていた。冷たく寒く、(わび)しい感情が胸を()ぎった。村を捨て、ファン・ダルタは一人でチョザへ向かった。彼は十二歳で、見習いの兵士になることができる年齢だった。だが本当に兵になりたかったわけでもなかった。ただ村を出たかった。閉鎖的な村で父が起こした事件のせいで、彼の家族は苦しんでいた。


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