第二章 竜楼の真影 1
第二章 竜楼の真影
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彼女は酷く退屈していた。王宮の弟の部屋は薄暗く、寝台に腰掛けて熱心に読書に耽っている少年は、とても遊び相手になりそうになかった。
リネアは錆色の長い髪を肩から払い、廊下へ出ると侍女を呼んだ。
「テマジ!」
しかし、しばらく待っても彼女付きの侍女は姿を見せず、リネアは嘆息した。
「退屈で死にそう」
部屋に戻ったリネアは、弟のジューヌが読んでいる本をその手からさっと奪い取った。それは子供向けの童話集で、ジューヌがすでに三度は読んでいる本だとリネアは気づいた。
「な、何するの? 返してよ!」とジューヌは情けない声を出し、姉を見上げた。
リネアは冷ややかに彼を見下ろし、本を床に放り投げた。
「一人遊びなんてつまらないわ。一緒に遊びましょうよ」
「や・・・やだよ、ぼく、ぼくは本を・・・・・・」
「本なんかいつだって読めるじゃない。さぁ、外でかくれんぼをしましょう」
リネアは九歳になる弟の手を強引に掴んだ。しかし、ジューヌは恐怖に怯えた顔になり叫んだ。
「イヤだ! 外なんか出ない。イヤだ、イヤだイヤだイヤだ!!」
激しく抵抗し、リネアが掴んだ手を振り回す。
「ちょっとだけならいいでしょう。たまには外にも出ないと躰に悪いわよ」
リネアが宥めるように言うのも聞かず、ジューヌはついに泣き出した。
「イヤだよ、イヤだあ・・・・・・うっ、うえっ・・・・・・ヤ、ヤだよぉぅ」
そんな弟にリネアはただ嫌悪の表情を浮かべ、手を離してやった。
――なんて弱虫なのかしら。こんなのがわたしの弟だなんて。
「うっ、うっ、うっ・・・・・・リネアが虐めるよぉ・・・・・・」
泣いている声を聞いたのか、弟付きの侍女がすっ飛んでくる。
「ジューヌ様、あらあら、どうしたんです」
中年の端女に慰められているのを見て、リネアは我慢ならずに部屋を飛び出した。
――情けないっ! あんなのが王子だなんて、王家の面汚しだわ。
リネアは自分の部屋に駆け込んだ。十二歳になるリネアの遊び相手は彼しかいなかった。だが、その弟、ジューヌはあの通りの軟弱で、滅多に外にも出ないばかりか、日がな一日、寝台の上で本を読んでいた。
部屋の隅では、リネア付きの侍女のテマジが、彼女の小鳥の籠を掃除していた。リネアはそこに近づいた。
「ねぇ、テマジ。何かして遊びましょう」
歳近いテマジは、リネアより四つ上の十六歳だった。鳶色の瞳をリネアに向けると、テマジは首を振った。
「リネア様、籠の掃除が終わっていませんので、申し訳ありませんが・・・・・・」
「そんなの後でもいいわよ」
リネアはテマジの袖を引いた。しかしテマジは頑なだった。
「いえ、リネア様。小鳥が病気になったらいけません。それに籠の掃除が終わったら、お部屋の掃除もありますので」
「だったら、他の人にさせればいいじゃない」
テマジはにっこり微笑み、諭すように優しく言った。
「みんな忙しく働いております。わたしだけ遊ぶわけにはいきません。リネア様、お時間があるのでしたら、マネスラー先生のお部屋をお尋ねになったらいかがです? 先生なら、何かおもしろい遊びをお教えしてくれるのではないでしょうか?」
リネアは眉間を寄せ、顔をしかめた。マネスラーとは、彼女と弟ジューヌの教育係のことだ。陰気な男で、灰色がかった長衣に、いつも鼻が曲がりそうな奇妙な香を焚きつけている。髪は柳のようにくねくねと伸び、薄い唇は常に両端が下がっていた。
マネスラーはタザリア出身者ではなく、ウァッリス公国の人間だった。タザリアの東、テュランノス山脈を越えた場所にあるウァッリス公国には、学士院というものがあり、バルダ大陸の知識者のほとんどがここを卒業していた。マネスラーもその一人だった。そしてウァッリス公国はまた、魔道具と歪力石、それに碑金属の産出国でもあった。
この三つは、超古代文明オグドアスの遺産とされており、現在の科学では解明できない特異な物質である。テュランノス山脈と、それと並行するように走る東のオーバード山脈の間に位置する深い峡谷には、その遺産がいまだ未解明のまま、数多く埋まっていた。ウァッリス公国はそれらを一手に掘り出す権利と力を持っていたのだ。
言うならば、ウァッリス公国はバルダ大陸の最大輸出国であり、その国の出身者は、どの国でも厚遇されていた。マネスラーも例外ではなかった。彼はそんな自分の価値を充分に理解し、王族であるリネアやジューヌにさえ、失礼な言動をとることがあった。だからリネアは、この男が嫌いなのだった。
「先生の所へ行くぐらいなら、一人で馬に乗っていた方がまだマシよ」
それを聞いてテマジは笑った。彼女は小鳥の餌を籠に入れながら言った。
「リネア様、遠乗りはいけませんよ。また陛下に怒られます」
以前、リネアが一人で遠乗りに出かけたことがあり、馬丁を含め、テマジやリネアに関わる多くの人間が王に責任を問われ、厳しく叱責されたのだ。もちろん彼女自身も、手酷い痛手を被った。それから十日の間、自室から出ることも許されなかったのだ。
「わかっているわ」リネアは口を尖らせた。「人に迷惑をかけたりしない。そうお父様と約束したもの」
半ば無理やり約束させられたのだが、リネアは誰よりも父を尊敬していたので、もう怒られるようなことはしないつもりだった。
彼女は一人、部屋の露台へ出た。陽光に眼下の潅木の緑が映え、三人の近衛兵がその脇を歩いていた。彼女は視線を上げ、厚い城壁の向こうを見た。チョザの街が胸壁の鋸の歯のようになった窪みから僅かに覗いている。ずっと遠方まで続く鉛瓦を見ていると、リネアはまるで自分も、テマジが掃除している小鳥の籠に住んでいるようだと思った。彼女は心底、退屈しきっていた。
そんな彼女の耳に、ざわめく人の声が聴こえてきた。リネアは眸を瞬かせ、もう一度眼下を見下ろした。近衛兵が城門の方へ駆けて行く。
「また帰還兵が戻ってきたのかしら?」
リネアの独り言に、鳥籠に小鳥を戻しながらテマジが応えた。
「きっと炎帝騎士団の方々でしょう。そろそろお戻りになると聞きましたよ」
リネアの脳裏に、剣戟で容赦なくジューヌを打ち負かす猛者グーヴァー騎士長の顔が思い浮かんだ。それに父王の信頼も篤い、漆黒の外衣を着た無表情な男。彼は今度の戦いでもっとも勲功を収めた人物だと聞いている。
「ファン・ダルタも戻ってきたのかしら?」
しかしテマジはもう鳥籠の掃除を終え、部屋の掃除を始めていたので応えなかった。リネアは露台から城門の方を見ようとしたが、身を乗り出してもそこまで窺うことはできなかった。彼女は部屋を出た。帰還兵に興味などなかったが、退屈しのぎにはなるだろうと思ったからだ。
王宮に三つある城のうち、もっとも大きな父王の座所である南のアイギオン城に彼女は塔づたいに走って行った。塔と塔を繋ぐのは城壁の最上部にある幅六ヤール(およそ六メートル)の巡視路で、そこには見張りの近衛兵が何人か立っていたが、リネアは彼らを無視して走り続けた。王女の珍しい行動に、兵士らは一瞬、眸を止めたが、誰も声をかける者はいなかった。王女は兵士に興味が無かった上、彼らもまたリネアと親しくはなかったのである。
すでに城門の跳ね橋は降りていて、帰還兵が続々と城内へと入って来ていた。リネアはそれをアイギオン城の西側、通廊の窓から眺めていた。薄墨色の外衣の中に、真紅や黒を探すのは思ったよりも容易なことだった。
彼女はしばらくして、帰還兵の中に一際目立った集団を見つけることができた。真紅の外衣が一人、それに黒い外衣が一人。それが炎帝騎士団のグーヴァーとファン・ダルタであることは間違いようがなかった。ただし、グーヴァーの馬にもう一人の小さな影が乗っていることを除けばだが・・・・・・。
「子供?」
リネアは眸を凝らして、グーヴァーと共に馬に乗っている人物を見た。自分と同じ錆色の髪。顔は俯いていて見えなかったが、彼女は妙な胸騒ぎを覚えた。
リネアはすぐにその場を離れ、騎士団が真っ先に目通りするだろう王の謁見室が見える場所へと向かった。