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一時間後、ジグリットは黒毛の馬で曠野を駆けていた。彼は今日も暮れる頃にファン・ダルタが偵察へ行くことを知っていた。きっと彼はまたその村に行くのだと思った。ファン・ダルタのあの病人のような様子が、その村と何か関係があるのかもしれない。そうだとしたら、絶対に突き止めて、彼を明日からでも別の場所へ偵察に行かせるか、もしくはチョザへ強制的にでも帰す必要がある。とにかく話をしようとジグリットは考えていた。
小高い丘を越え、南西の方角に向かっていると、小姓の少年が言った通り、杏のように輝く橙色の光が、太陽から荒野全体に向かって放たれ始めていた。ジグリットは黒毛が久しぶりに外へ出れて喜んでいるのを感じ取っていた。馬は人を乗せているとは思えない速度で駆けた。ジグリットの耳の側を風が唸りを上げて通り過ぎていた。
村らしきものは、潅木がまばらにしか生えない曠野ですぐに眸についた。ジグリットが馬の方向を変え、少し速度を緩めて走らせて行く。そのとき、百ヤールは離れた場所から、村の中で誰かが怒鳴っているのが聞こえた。
――誰かいる。
村と言われても、それは見た目には瓦礫の山になっていた。村を囲っていたのだろう石垣は、一部が倒れ、ほとんどが欠けたり崩れたりしていた。その中にある家々の屋根は、ほとんどが失われていた。残っている土台と壁も激しい損傷を受け、風雨に晒された結果、それが隣りの家の壁なのか、裏の家の仕切りだったのかさえわからなくなっていた。つまり、それらは自然に還ろうとしていた。
ジグリットは村の手前で黒毛から降り、そばにあった高さ三ヤールほどの御柳の幹に手綱を繋いだ。村の中に人の姿はまだ見えなかった。声はもう聞こえず、代わりに何かが地面を擦るような、ザッザッという奇怪な音がしていた。ジグリットは剣帯に手をかけた。
ゆっくりと足音を忍ばせて、石垣の破損した箇所から通り抜けられそうなところを見つけ、そこから村に入って行く。岩の砕けた破片がそこら中に転がっているので、足音を殺すのはほぼ不可能だった。しかし、中にいる人はまだ気づいていないらしい。
ジグリットが石垣と壁の一部が残っている家の間を抜け、村の奥へ入って行くと、大きな影が直角の岩壁から、こちら側の地面に伸びていた。
右手で柄を握り、ジグリットは鍔を左手の親指で押し上げると、一気に抜き放ちながら角を曲がった。構えた剣の向こうに、黒毛の去勢馬が立っていた。馬は足元の硬そうな岩盤を、ザッザッと強く蹴りつけていた。ジグリットは詰めていた息を吐き出した。そしているはずのない馬がここにいることを知り、また緊張が高まるのを感じた。
確実に人がいるのだ。さっきの怒鳴り声が、自分の空耳でなかったことが証明されただけだ。ジグリットは辺りを見回した。夕暮れ時の太陽は村の中に鮮やかな紅色を撒き散らしていた。おかげで残された家の外壁が作り出す影は、余計に濃く深く、暗く陰鬱に感じた。
三軒ほどの家の横を素通りしたとき、ジグリットは誰かの荒い息づかいを聞いた。それは一度ではなく、二度、そして三度と続いた。剣を握り、ジグリットは再び、緊張の中、細い路地だった通路に足を向けた。そこから先、村の中央広場だったと思しき場所まで、一切遮るものはなかった。周りの家々は土台を残して掻き消えていた。
そこに一人の青年が立ち、恐ろしい形相でこちらに剣を向けていた。ジグリットは彼が自分に気づいているものだと思った。しかし、ファン・ダルタは別のものを見ていた。彼はジグリットがまだ十ヤールは離れているのに、剣を振りかぶった。そして空中に叩きつけるように振り下ろした。激しく斬り裂かれた風の唸りが聞こえた。
騎士は荒い呼吸を吐き出し、眸に入った汗を拭おうともせず、片眸を瞑ったまま叫んだ。
「消えてしまえッ!」
ジグリットは自分が言われたのかと、一瞬驚いたが、そうではなかった。
「おまえ達が消滅するまで、おれは何度でも斬り裂いてやる! 何度でも殺してやるッ!」
ファン・ダルタの気迫に、ジグリットは只ならぬものを感じ、ここに来たことを初めて後悔した。
――これは一体何なんだ!?
――なぜファン・ダルタは一人で喋ってる。
――どこにも・・・・・・誰もいないのに・・・・・・。
彼がまた剣を構える。前後に開いた足を見たジグリットも剣を構えた。二人の距離は十ヤールもあったが、冬将の騎士が前方に攻撃しようとしているのは明らかだった。本気で彼が突きを繰り出してきたら、自分は死ぬかもしれない。ジグリットが防戦しようとしたのは当然だった。
黒貂の外衣が翻り、下に着ている漆黒の鎖帷子がよく見えた。風にそよぐ黒髪も、病的なその表情さえ、ジグリットははっきりと眸にしていた。
ファン・ダルタはすさまじい速度で剣を突き出し、ジグリットの数歩手前の空間を貫いた。すぐに脚が引き戻り、半身になって騎士は真横に剣を斜めに振り上げた。ジグリットがぼうっとしている暇はなかった。騎士はさらに逆の脚をジグリットの方へ出した。ジグリットの前で騎士が何もない空中に向けて叫んだ。
「近づくな! おれに近づくなッ!」
ジグリットは異様な雰囲気に、恐怖で足が竦みそうになった。しかし、砦での彼の憔悴しきった様子が、これなのかと思うと、放っておくわけにもいかなかった。彼の眸を覚まさせ、話をしなくてはならない。彼が話したくないことも。何もかも。それは冬将の騎士の性格を知っているジグリットには、どれだけ難しいことかはわかっていた。
ジグリットはまた見えない敵と戦い始めたファン・ダルタの剣をじっと見つめた。刃が彼の前後左右をくまなく攻撃している。何を見ているにしても、その敵はそうとう手強いらしい。そしてジグリットは刃がこちらを向く瞬間、足を踏み出した。
振り下ろした騎士の剣を、ジグリットは自分の長剣で受け止めた。両腕の筋が震え上がり、剣と剣が弾き合い、二人は同時に後ろへ飛ばされた。ジグリットは剣を下ろさず、構えたまま、ファン・ダルタと向き合った。二つの刃が奏でた現実感のある甲高い音に騎士は眸を瞠った。闇のように黒い、何一つ映していないようだった眸に、光が宿るのがジグリットにもわかった。
「王子ッ!!」彼は剣を引き、そしてよろけるように後ずさった。
「一体、何をしているんだ、ファン・ダルタ!」
ジグリットが強い口調で問いかけると、騎士は崩れるように跪いた。完全に正気づいた彼は恐ろしさの余り、全身が瘧のように震えていた。
「お赦しください。世継ぎの君にわたしは――」
ジグリットはそれを無視して、彼の外衣を掴み、引き摺るように立たせた。
「ここで何してたって聞いてるんだ!」
騎士は恐怖に凍りついていた。
「わ、わたしは・・・・・・わたしは・・・・・・」
一陣の冷えた風が、かつての広場だった瓦礫の中を吹き抜けた。




