4ー2
夕刻。冬将の騎士が毎夕、行っている砦周辺の偵察へ向かうため、正門で馬丁から馬を預かると、南西へ進む彼とは逆の南東の方角へ偵察に行く長髪の騎士がやって来た。ドリスティは炎帝騎士団の中でも一番若い騎士で、まだ十八歳だった。彼は見た目は軟弱そうに細くなよなよしていたが、中身も女のようだった。よく言えば物腰が柔らかいのだろうが、仕草もどこか女性らしかったのだ。それでも弓を持つと、ドリスティは別人のように働いた。それがドリスティが騎士団に任命された理由だということを、冬将の騎士は知っていた。
しかし今、ファン・ダルタは彼の服装に眸を眇めた。
「その格好はなんだ?」
ドリスティは長くすらりとした白の外套に、同じ白の手袋をしていた。騎士団が着る真紅の外衣はなく、彼がタザリアの騎士であることを示すのは、肩章の板金の紋章だけだった。
「外衣はどうしたんだ?」
厳しく問いかけたファン・ダルタに、ドリスティは気にもせず、明るく笑った。
「汚してしまったんです」
それが嘘だということは、冬将の騎士にもわかっていた。そう言って彼はいつも好き勝手な格好をしているのだ。だがあまりきつく言うこともできなかった。ファン・ダルタも派手な真紅の外衣が苦手で、いつも黒貂の外衣を着ていたからだ。
ドリスティが馬をゆっくり歩かせ始めたので、冬将の騎士も彼に並んで歩き出した。正門は二人の騎士の背後に遠ざかりつつあった。荒涼とした景色には、人の姿どころか、獣すら存在していないような静けさがある。風が地面を削りながら吹き寄せる以外に、彼らを邪魔するものは何もなかった。
冬将の騎士は、自分が背負っている厄介事を考えると頭が痛かった。それ以外のことが、どうでもいいことにさえ思えた。砦の責任者であるファン・ダルタにとって、兵士のくだらない小競り合いや、小姓頭の度重なる陳情は、確かに煩わしかったが、それは些細なことでもあった。王子の存在さえ、彼にいま降りかかっていることに比べれば、他人に任せておけば済むことだった。
冬将の騎士は「行くぞ」と低く呟き、手綱で馬の向きを変えた。その横顔を見たドリスティは、思わず言ってしまっていた。
「ファン・ダルタ、今日はわたしが南西へ行きましょう」
しかし冬将の騎士は振り返り、恐ろしい形相で「さっさと行け」と睨みつけた。そして馬の腹を蹴ると、南西の方角へ走り出してしまった。早駆けで遠ざかって行くファン・ダルタに、ドリスティは溜め息をついた。
「毎日、あんな顔色で偵察に行かれても、心配なだけだわ」
南西に何があるのか、ドリスティは他の兵士から伝え聞いてはいた。ゲルシュタインとの国境が湾曲して入り込んでいるということ。そして、随分昔に打ち捨てられた村の跡が残っているということだった。
夕映えに空が赤く染まる頃、ジグリットは厩にいた。その日一日、彼は砦の中にある、ありとあらゆる場所に出入りしていた。そして砦に何が不足しているのか、何か些細なことでも問題があるかどうかについて、兵士や様々な労働者に訊いて回った。大方の兵は、女性が少ないことを嘆いていたが、その他には数人の小姓が、小姓頭の自分達に対する扱いが差別的であることなどを、ジグリットに話してくれた。
最後に訪れた厩には、隣りの番小屋に住む年老いた馬丁と、小姓が一人いるはずだったが、そこにいたのは少年だけだった。少年は背丈以上の大きな馬鍬を手に、干草を掻いていた。見覚えのある少年の姿に、ジグリットは背後から声をかけた。
「大変そうだね」
すると、少年は特に驚いた様子もなく、数秒してからのんびりと振り向いた。彼の中央に寄った眸がじっとジグリットを見つめる。少年は穏やかそうなジグリットの表情に、ようやく安心したように笑った。
「そうでもないでよ。おら、力だけはあるんだ」
ジグリットも釣られたように、にこりと笑った。
「そう。新しい干草はいい匂いがするね」
近づいて柵の前に並んだ馬を眺めると、馬達も喜んでいるようだった。少年は、また馬鍬で仕事を始めた。
「ねぇ、ちょっと訊いてもいいかな?」
ジグリットの問いに、少年は手を止めずに馬鍬で草を引き摺りながら「いいよ」と答えた。
「小姓の扱いが酷いって聞いたんだけど、日に一度しか御飯を食べれないって本当に?」
少年は積み上げた大きな干草の山の前にいた。彼は振り返り、困惑げに言った。
「そうだけど、あんた知らねぇのか?」
「ぼくはまだここに来たばかりだから」
「そっかぁ。でも夜になったらちゃんとした飯食べれっし、それだけでも感謝しなって姉ちゃんがよく言うでよ、おらもそうかと思とっよ」
ジグリットが黙っていると、少年はにかっと笑って言った。
「たまに優しい人もいでよ。昨日なんか姉ちゃんが、上等のお肉の入った麺麭をくれたで、おら今日はすごい元気だ」
「君の姉さんって・・・・・・アイーダ?」ジグリットが呟く。
「知ってるだか? 姉ちゃんは本当は自分に貰ったのに、おらに半分もくれたんだ。ああ、あのお肉美味かったぁ。また食べたいなぁ」
生唾でも堪えるような顔をしている少年に、ジグリットは微笑んだ。
「他に、食事以外に困ってることはある?」
すると、少年はジグリットの立っている左隣の馬房を指した。
「そこの鹿毛の牡馬がよく逃げ出すんだ。おら、あまり外に出ない馬を散歩させるように、言われてて。でも馬がいなくなったら、みんな凄く怒るから、遠くまで探しに行かなきゃなんねぇ」
ジグリットは今は大人しく飼葉を食んでいる牡馬を見た。
「遠くまでって、どこまで行くの?」
彼は口を歪めて「ずっと遠くさ」と言った。「何日前か忘れたども、夜のちょっと前になっても見つかんねぇんで、遠くまで走っただ。本当に心の臓が飛び出しそうなぐらい走っただよ。で馬が見つかって帰りに、おら、偵察中の黒の騎士様が村に入ってくのを見ただ」
ジグリットは眸を上げた。黒の騎士とは、冬将の騎士のことだろう。
――それにしても、この砦の近くに村なんかあったか?
この近辺の詳細な地図なら、ここへ来る前に王宮で見ていた。しかしジグリットは、砦の近くに村があったとは記憶していなかった。もし見ていたら覚えているはずだ。
「村ってどんな村?」
少年は馬鍬を板壁に立てかけて、木製の桶を手に取っていた。
「幽霊の村だ」
「・・・ゆ、幽霊の村?」
「そだ。ずっと昔につぶれた村だって爺さんが言ってただ。でもおら、そこで黒の騎士様がとんでもなく怖い顔で剣を振り回してたから、びっくりして逃げてきただよ。騎士様はここのところ、顔が怖いんだ。前もむすっとしてたんだけど、今はもっとむすっとしてるだ」
「・・・・・・」
ジグリットは冬将の騎士がなぜそんな所で、剣を振り回していたのか、考えてみたがさっぱりわからなかった。剣の稽古なら、彼は砦で兵士や他の騎士達としているはずだ。そんな場所で一人で何をしているのだろう。
少年はジグリットが考え込んでいるので、水汲みに行ってもいいのかわからず、戸口に立っていた。ようやくジグリットが気づいて、「わかったよ、ありがとう」と答えると彼は井戸へ行こうとした。ジグリットはすぐに彼を呼び止めた。
「待って! 最後に訊きたいんだけど、その場所はどの辺りだった?」
少年は振り返って「ええっと・・・・・・」と考え込んだ。「おら、頭が悪いから」と彼はすぐに諦め言った。
「太陽!」ジグリットは叫んだ。「馬と帰るとき、どっちに太陽があった?」
思い出すように首を傾げると、少年は言った。
「・・・・・・お日様は左の方にあっただ。村が杏の砂糖漬けみたいになってたなぁ」
曖昧な返答だったが、それで充分だった。ジグリットはお礼を言って、彼を水汲みに行かせた。




