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ジリス砦へ着いた翌日、ジグリットは朝から食堂に一人でいた。彼にべったり張り付いているような暇な人間は、ここでは一人もいないようだった。近衛隊のフツでさえ、隊員と共に正門の警護の様子や、外壁の古くなって崩れかけた箇所を確認するのに忙しくしていた。だがそれはそれでジグリットにとっては、好きなように周りを散策できる良い機会だった。
ジグリットが兵士に混じって、素知らぬ顔で朝食を摂っていると、昨日の少女がたくさんの食器を抱えて厨房との通路を行ったり来たりしていた。兵士達が使った食器を洗い場へ運んでいるのだ。ジグリットはぼんやりと彼女の様子を見守った。黒くなった薄い裸足や器用に積み上げた食器を運ぶのを見ていると、彼女の方からジグリットに気づいた。
ちょうど隣りの席についていた数人の兵の一団が退去したので、ジグリットの周りには置いていかれた食器が散乱している。少女は急いでこちらへ小走りでやって来ると、食器を片付けるふりをしながら、ジグリットに声をかけてきた。
「昨日はどうもありがとう」彼女は皿を重ねながら小声で言った。
「見つからなかった?」ジグリットも混雑する食堂で、誰かに気付かれないよう食事をしながら訊ねる。
少女は数回頷くと、「あんな美味しいお肉初めて食べた」と呟き、一度だけジグリットを横目で窺った。「あたし達、日に一度しか御飯を食べさせてもらえないの。みんなが夕食の片付けを終えた後によ。だからあの時間は、すごくお腹が空いてて・・・・・・」
そのとき、厨房の方から怒鳴り声が響いた。
「アイーダ、何してやがんだッ! さっさと運ばねぇかッ!!」
少女がびくんっと躰を震わせた。ジグリットはそれを見て、眉をひそめた。少女の男の子のように短く刈られた髪や、靴も与えられずにいる汚れた裸足の足も、ジグリットの眸には不愉快に映った。ジグリットがエスタークでかっぱらいをしていた頃だって、自分の髪は仲間にそれなりに見栄えのするように切ってもらえたし、靴も履きたければ盗んでくることができた。
少女は料理夫にそれ以上怒鳴られるのが怖いのか、ジグリットにもう一度礼を告げると、そそくさと食器を手に去って行った。ジグリットは溜め息をつき、彼女達の生活がよくなるように騎士に助言しようと思った。それから残っていた朝食を口の中へ掻き込むと、自分の手で食器を厨房の入口まで運んだ。
砦にいる間、ジグリットは一番下っ端の雑兵が着る、灰色の肩章だけがついた兵服姿でいることにしていた。王子だとバレないようにするためだったが、それが功を奏してか、彼が砦内を歩き回っても、誰も気に止めなかった。ジグリットはゆっくりと食堂から正門の方へ続く通廊を歩いて、晴れ上がった外へ出て行った。
――どこか遠くへ行きたいな。
――馬で遠乗りしようか。
――一人で行くとまた、色々面倒だし、ファン・ダルタでも誘おう。
ジグリットは建物の外で冬将の騎士を捜し始めた。外壁の上部にある巡視路で数人の兵が等間隔ごとに突っ立っているのが見えた。
――あそこから捜せばすぐに見つかるだろう。
南西の巡視路へ上がるため、円塔の螺旋階段を昇り、ジグリットは小道ほども幅のある巡視路の上に出た。風が強く、髪が根元から吹き上がる。近くにいた騎士がそっと寄って来て、ジグリットに話しかけた。
「ジューヌ様、どうかなされましたか?」
それは初日にジグリットとフツに砦の案内をしてくれた炎帝騎士団の騎士、ドリスティだった。
「いや、巡回ご苦労。ちょっと人捜しだ。ファン・ダルタを見なかった?」
ドリスティは騎士団の真紅の外衣ではなく、白一色のすらりとした外套姿だった。彼が首を振ると、一括りにされた長い金髪が太陽の光にキラキラと反射した。
「いいえ、見かけませんね。お急ぎでしたら、わたしも一緒にお捜ししましょう」
今度はジグリットが首を振った。
「いや、いいんだ。ここの警備を頼む」
ジグリットはその騎士の背に斜め掛けされた長い矢筒と、巡視路の脇に置かれた立派な櫟材の長弓を見て微笑した。
「よく手入れされた弓だね」
「ありがとうございます」ドリスティが長弓を手に取ると、磨きあげられた表面が艶やかに光った。
「それに相変わらず練習の虫のようだしね。昨日、指に立派な胼胝があるのを見たよ」ジグリットがにこやかに言う。
すると、ドリスティは初めて端正な顔を曇らせ、「ああ、胼胝ね」と明らかに気落ちしている様子でうな垂れた。
「どうかした?」
ドリスティは白い長手袋を取ると、細い指先を掲げて、ジグリットに向けた。
「わたしの指って細くて白くて綺麗だと思いませんか?」
「うん、そうだね。まるで女の人の手みたいだ」
胼胝がなければ、とジグリットは心の中で付け足した。
「それが、この忌々しい胼胝のせいで、台無しでしょう! あまりに眸に余るので、以前切り取ったんです」
「えっ!?」
「そしたら、余計に大きくなってしまって・・・・・・」
ジグリットは驚いて、彼の指をまじまじと眺めた。確かにそれは彼の指には不似合いなほど不気味に膨らみ、白い枝についた蟷螂の卵のように、皮が厚く変色していた。しかし、騎士は剣胼胝や弓胼胝ができて当然で、むしろそれを自慢に思っている人の方が多い。なので、ジグリットは躊躇いつつ、落ち込んでいるドリスティに曖昧な笑みを浮かべた。
「よ、よく見たら、そんなに気にならないよ。うん」そして話を変えようとした。「それよりさ、時間がある時でいいから、弓の使い方を教えてくれない?」
ドリスティは首を傾げた。「王子は剣の稽古を受けているのでしょう?」
「そうだけど。弓は基本しか知らないから」
すると、ドリスティは手袋を嵌めながら言った。
「剣の使い手が弓の使い手になる必要はないと思うわ。“人は複数のことよりも与えられた一つを大切にすべきだ”」
「教典の逸話だね」とジグリットが言う。
それはバスカニオン教の有名な教典の一節にある言葉だった。ドリスティは熱心な信者なのだろうか、とジグリットは眉間に皺を寄せた。彼は主を盲目的に信じる者が好きではなかった。もちろん、少女神であるアンブロシアーナのことは別だが。
ドリスティは気づかなかった様子で、にこりと微笑んだ。
「そうよ。わたしが弓を使うのは、主が決められたこと。ジューヌ王子が弓より剣を得意としているなら、何も弓にまで手を伸ばす必要はない」
「主がそう決めたから?」
「ええ。そして広く浅く何かを得るのなら、それは何も得ていない事と同じだからよ。何かを自分の物にしようとするなら、それを深く良いところも悪いところも知らなければならないわ。とても苛酷なことだけど、たった一つの物を得るために、みんなそうしている」
ジグリットはドリスティの女のような喋り方に気づいていたが、特に気にしなかった。王宮にいたときも、彼はこの喋り方と見た目のせいで、騎士を含め兵士達に奇異の眸で見られていたが、ジグリットは最初からドリスティのそういうところには無頓着だった。そのせいもあって、ドリスティは分け隔てない接し方をする王子を慕うようになっていた。
ジグリットはドリスティの話を聞きながら、ふと眺めた南東の外壁の手前、砦の内側に冬将の騎士の姿を見つけた。
「ありがとう、ドリスティ。心に留めておくよ」
ジグリットはそう言いながら、すでに巡視路を降りる階段へ足を踏み入れていた。ドリスティが「どこへ?」と訊く前に、ジグリットは螺旋階段の裏側へ回り、柱に隠れてしまっていた。
南東の巡視路へ上がる外壁の手前、冬将の騎士はジグリットが見かけた場所にまだ立っていた。そこは伝令用の鳥小屋があり、今は二匹の梟と一匹の隼が別々の籠に入れられ翼を休めていた。
ファン・ダルタの前の止まり木に、一匹の隼が止まっていた。彼は手にしている手紙の入った木製の筒を、その隼の足に括りつけている。
「ファン・ダルタ」とジグリットは歩き寄り、その隣りに立った。「チョザへ出す手紙か?」
騎士は筒を付け終え、王子に頷いた。「ええ、陛下への定期報告です」
「ぼくは砦の外へ遠乗りに出たいんだ。一緒に行ってくれないか?」
ファン・ダルタは隼を木から腕に移し、頭上に掲げた。
「ジューヌ様、砦から出るのは賛成しかねます。ここはゲルシュタインとの国境沿いです。ここから5リーグ(およそ24キロ)も西へ走れば、そこはゲルシュタインの領土。彼らが一歩足りとも侵入を赦さないことは理解できるでしょう」
隼は彼の手から、力強く飛び立った。
「何も彼らの領土へ入ろうとは思っていない」ジグリットは肩を竦めた。「この辺りを見て回りたいだけだ」
「それでもわたしは賛成できません。王子がこのジリスへおいでになっていることは、砦の者もすでに知っています。彼らの忠心を疑いたくはありませんが、ゲルシュタインにバレていないとは限らないのです」
「だったらおまえは、交代式の当日までぼくをこの砦に閉じ込めておく気か?」
ファン・ダルタは王子の言葉に、腑に落ちない妙な感覚を抱いた。
――こんなに積極的に外へ出たいと言うなんて・・・・・・。
――以前の王子なら考えられないな。
しかしジグリットは、自分の失敗に気づいていなかった。
「頼むよ、ファン・ダルタ。君が一緒なら平気だろう」
騎士は初めて疑いを持って、王子を見つめた。少年はジグリットとそっくりな貌をして、同じ口から声を発している。
――だが彼は、口が利けなかった。
ファン・ダルタは、ジグリットがどんな声で話すのか知らなかった。しかし想像すると、もしジグリットが生きていて、口が利けたなら、こんな風にしっかりと意志の強さが声に表れるだろうと思った。
――わたしの知っていた頃の王子は、いつも小さな声でぶつぶつ言っていた気がするな。
ジグリットはようやく、騎士が何か考え込んでいるのを知り、自分が無鉄砲な我儘を言ったことに気づいた。
「いや、やっぱりいいや」取り繕うようにジグリットは言った。「外は危険そうだしね。しばらく砦の中を見物しているよ。それにほら、部屋で本を読んでいてもいいし」
「そうですね、王子のためにはその方がいいでしょう。わたしも他の用事が幾つか山積していますので、会えるのは夕餉の時間になると思います」ファン・ダルタは怪訝な表情を隠して、同意した。
ジグリットは慌ててその場を立ち去った。その背中を見つめる騎士の脳裏には、見えない棘のように小さな疑惑が植え付けられていた。




