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ジリス砦の正面玄関である南に開いた正門には、すでに一行を迎える常駐兵の列ができていた。彼らは総勢五十人ほどいて、ジグリットが辿り着くと、すでに炎帝騎士団の騎士達は馬を仲間に預けて足早に建物へと向かっていた。一人残っていたのは、ここまで先導者として彼らを率いてきた金髪の騎士だった。彼は他の兵に気づかれないよう進み出てきて、ジグリットの馬の手綱を取った。
「王子、この歓待の騒ぎに乗じて、まずは砦の騎士との顔合わせに行きましょう。わたしに付いて来てください」
ジグリットが馬から降りると、騎士は慌てて手近な場所にいた小姓を捕まえて、厩舎へ黒毛を運ぶよう命じた。近寄って来たのは寄り眸の七、八歳の少年で、彼はなまりのきつい声で頷いた。
「いいよ、おらに任してくろ」
長距離を駆けてきた馬と同じくらい汚れた服を着た小姓は、ジグリットを見てにたっと笑った。一瞬、それがエスターク時代の仲間を彷彿とさせて、ジグリットは小さく微笑み返した。
「ああ、頼むよ」とジグリットが黒毛の手綱を渡すと、騎士は小汚い小姓をさっさと遠ざけようと、手を振った。
「早く行け! 怠けるんじゃないぞ」
「へえ、わかってまさ」
小姓は手綱をしっかりと手首に巻くと、馬をあやしながら厩舎へ連れて行った。
「あんな子供も働いているのか?」
ジグリットが小姓の後ろ姿を見ながら言うと、騎士は苦笑した。
「子供とはいえ、貧民の子ですから」
その言葉に含まれた侮蔑の意味に、ジグリットは苦い思いで顔を歪めた。
「それでも子供は子供だ」
はっきりとそう言い返し、騎士が変な顔をするのを無視して、ジグリットは去って行く少年を見つめた。門の奥にある厩舎へ向かう少年が、他の馬を連れた兵士に肩で小突かれたり、怒鳴られたりしているのを、ジグリットはじっと見ていた。彼はそうされても、へらへらと不気味な笑みを浮かべて、どんどん他の兵士に横入りされながら、厩舎の入口まで向かっていた。
門前はすでに人と馬で溢れ返っていた。続々と到着する兵士達は、懐かしい友人に会えた喜びで立ち止まり、初めての砦への常駐で戸惑う新米兵もまた、門前で右往左往していた。
頑丈に造られた石積みの正門には、黒き炎の旗が上部にしっかりと固定して掲げられ、ジグリットは騎士と共に門を潜った。砦の中は外よりも騒然としていた。門を入ってすぐにある長方形の建物と、その奥にある台形の建物の二つだけが砦の主要な建築物だった。後は厩舎とその続きにある番小屋、それに小姓の寝泊りする小屋が外壁に沿って建っていた。どれも古びて衛生状態は酷く悪そうに思えた。ジグリットは、さっきの少年のことを思い、眉を寄せた。
手前の長方形の建物に案内されたジグリットは、ニ階の士官室に集まった八人の騎士と今回共に来た近衛隊の隊員四人、それに隊長のフツがすでに集まっているところへ入って行った。
砦に常駐していた騎士が二人進み出て来ると、彼らは揃ってジグリットの前に跪いた。
「ジューヌ王子、このような遠境への出向、ご苦労様です」
「我ら、世継ぎの君をお迎えできることを栄誉に、心より歓待申し上げます」
砦にいる騎士は三人だと聞いていたが、そこにいるのは二人だけだった。ジグリットは適当な相槌を打ちながら、二人の騎士の隣りに冬将の騎士がいないことを訝しく思った。本来ならば砦で一番の責任者である彼が迎えるものだ。しかし士官室の狭い室内に、漆黒の鎧の姿は確認できなかった。
「冬将の騎士はどうした?」ジグリットは跪いている彼らを立たせると訊ねた。
二人の騎士は怪訝な様子で顔を見合わせた。
「王子、冬将の騎士はただいま外出中です」
「おそらく夕刻には戻ると思いますが」
ジグリットには理解できなかった。今日、彼らが来ることは、ファン・ダルタも伝令によって知っていたはずだ。
ジグリットが不機嫌なのに気づいて、騎士達は慌てて付け加えた。
「冬将の騎士は西側の国境へ、偵察に出ているのです」
「毎夕の日課ですので、欠かすことはできません。ご了承ください」
ジグリットはがっかりしたが、あまりそう見えないように気をつけて「そうか」と答えた。実際、ジューヌ王子とファン・ダルタはそんなに仲が良かったわけでもないのだ。必要以上に彼に構っていると、また王宮にいたときのように、いらぬ疑惑を持たれるかもしれない。現にフツが自分を見ていることに、ジグリットは気づいていた。
騎士達はジグリットが王子ではなく、一般兵として砦で生活するため、すでに策を練っていた。なので、彼らの話し合いはその確認に終始し、後は歓談に転じた。ジグリットは部屋の隅に置かれた椅子に腰掛け、落胆している自分を押し殺していた。
それを見た先ほどの騎士の一人が声をかけてきた。
「王子、お疲れですか?」
ジグリットが顔を上げると、騎士は穏やかな表情でにこりと笑った。彼は女性と見紛うような長い金髪を頭頂部で一つに括り、切れ長の淡青色の眸をしていた。以前、この騎士に会っていたことを思い出し、ジグリットは顔を綻ばせた。
「ああ、ドリスティ、大丈夫だよ」
騎士の若々しい姿形もさることながら、彼の美貌は見る者をハッとさせるほどに整っていた。おかげで普通の騎士より悪目立ちするところが多く、王宮にいた頃、何度か問題を起こし、結果チョザから別の要塞へ出向させられたと聞いていた。しかもドリスティには他の者にはない特異な点があり、そのせいで騎士団にもあまり馴染んでいないのが現状だった。
ジグリットは王宮にいた頃、何度かドリスティと話をした記憶はあったが、彼がこれほどまでに明るく自分に話し掛けてくるとは思っていなかった。困惑しているジグリットにドリスティは気にせず告げた。
「王子、お疲れのところ申し訳ありませんが、一通り砦の中を見て回りませんか? 他の兵は皆、一階の大食堂で一時間は着任の挨拶でうろつきませんから、今なら人に見られることもありませんよ」
少し戸惑いながらも、ジグリットは立ち上がった。
「あ、ああ・・・・・・ドリスティ。じゃあ、そうしようかな。よろしく頼む」
「それなら、ぜひおれも同行させてもらおう」割って入るようにフツが近づいて来た。
ジグリットに断わる理由もなく、ドリスティも取り立てて気にしない様子なので、三人は連れ立って部屋を出た。ドリスティの後ろを歩き出したジグリットは、彼がかなりの長身であることを知り、ついでその手の人差し指と中指に大きな節のような
胼胝が出来ているのを見つけた。
――そういえば、彼は弓が得意だったな。
ドリスティの弓の腕前については、騎士団でも他の追随を許さない名手であることは有名だった。そう考えると、彼の体格が他の騎士よりもほっそりしているのも納得できる。
ドリスティは同じ建物内にある兵舎と、騎士達の居室になっている他の士官室、それから小さいながらも小綺麗にしてあるバスカニオン教の礼拝室へと二人を案内した。
ジグリットはその祭壇だけの礼拝室がとても気に入った。祭壇にはごてごてした飾りは一つもなく、ただ少女神の像がぽつんと一段高くなった場所に置かれているだけだった。古い像なのか、それとも幾人もの兵士が撫でたせいなのか、青銅の像はとっくに鍍金が剥げて輝く鼠色になっていた。それでも少女神特有の穏やかさと清廉な姿には、なんら変わりなく、天を見上げるその視線は安らかに微笑んでさえいた。
それから三人は外へ出て、今度は奥の台形の建物へ向かった。途中に石で囲われた古い井戸が見えた。ジグリットはドリスティに訊ねた。
「水はすべてあの井戸でまかなっているのか?」
ドリスティは「ええ」と頷いた後、「ですが、家畜や馬に与える水は別ですよ」と言って、自分達が出てきた建物を振り返り指した。「飲食用じゃない水は、大抵あの建物の地下にある貯水槽のものを使っています」
ジグリットはその地下も案内して欲しかったな、と思ったが口にはしなかった。多分、屋根から樋を伝って流れた雨水を地下の貯水槽に貯めているのだろう。
三人は奥の建物へと入った。そこでは鉄を打つ聞きなれた音がしていた。鍛冶師がいるらしい。ドリスティはまず、武器庫に向かった。広い吹き抜けの武器庫には、ジグリットが思っていた以上の武器が所狭しと並べられていた。壁に掛けられた剣や槍だけでも数百はくだらないだろう。
――兵の数の数倍は武器があるな。
ジグリットは戸口に立って、唖然としていたが、フツは喜色満面といった様子で入っていき、幾つかの武器を手に取ったり、眺めたりした。
「こんな所じゃ、武器は古いものしか置いていないかと思ったが、そうでもないな」彼は一つ一つを熱心に見やりながら言った。
「そうですね、わたしもここへ来た当初は驚きましたが、やはりこの砦はそれだけ主要な場所にあるのだと今は認識しています。それに・・・・・・」とドリスティは暗い表情になった。「最近はここもそう安全ではないので、これでも足りないぐらいかもしれません」
「ゲルシュタインが近くに来ているのか?」
ジグリットが驚いて訊ねると、ドリスティは苦笑いを浮かべた。
「いえ、彼らの軍隊は境でじっとしています。いつ見ても不気味なほど静かですよ。ただそれが薄気味悪くもあるんです」
フツは武器を置いて、戸口へ戻って来た。
「ゲルシュタインの蛇共が襲ってきたって大丈夫だ」彼はやけに自信たっぷりだった。
「どうしてさ」ジグリットが訊ねる。
フツはふっと笑った。
「あいつらは山岳の小国アスキアさえ攻め陥とせないんだぜ? タザリアはゲルシュタインより豊かで領土も広い。それに何よりおれがいるからな」
フツの自信満々な態度に、ジグリットとドリスティは顔を見合わせ笑った。
三人は次に武器の修理を行う鍛冶室を訪れた。そこには常駐の鍛冶師が一人、鉄を打っていたが、よく見るとそれは剣ではなく、鍋だった。
「いやね、厨房から頼まれたんでさ」と人の良さそうな黒灰色の鬚をわさわさと伸ばした鍛冶師は、手を休めず三人に言った。「どこからって厨房からの頼まれものが一番多いんですよ。鍋の底がどうたら、取っ手がどうこうってなわけで」
ジグリットは隣りでフツが、戴けないといった様子の渋い顔で唸るのを聞いた。ジグリットとしては、鍛冶師が剣ではなく鍋を打つのは平和の証拠で、それはそれでいいのではないかと思った。
最後にドリスティは二人を武器庫の地下に連れて行った。昼間でも暗いので、騎士は松明をつけ、三人の足元を照らしながら歩いた。そこは食糧の貯蔵庫になっていた。軍隊に攻め込まれてもひと月は籠城できるほどの食べ物があった。三人がかりでも持ち上げられないだろう大樽の葡萄酒と麦酒、豚肉の塩漬け、ぶら下がった豚の燻製、それに麺麭を焼くための小麦が数え切れないほど袋のまま積んである。乾燥させた玉蜀黍の袋が破れたのか、黄色い粒が幾つも転がっていた。
「これで終わりです。この砦は狭いので、案内のしがいもありませんね」
ドリスティと共に地下から上がってくると、ジグリットは彼に礼を言った。
「案内ありがとう。でも最後にまだ案内し忘れてるところがあるよ。ぼくと彼の部屋はどこかな?」
ドリスティはすっかり忘れていたのか、慌てて答えた。
「そ、そうでした。すみません、王子。お二人の部屋は手前の建物の士官室となります。ではまた戻りましょうか」
ジグリットが部屋に案内されたのは、フツより先だった。そこは彼の王宮の部屋とそう変わりがないほど広く、そして丁寧に掃除されていた。調度品はあまりなかったが、ジグリットにはその方がよかった。あまり高価な物に囲まれていると、たまに息苦しく感じたからだ。ただし、寝台は質素とは言い難かった。木製の天蓋のついた天鵝絨張りの寝台を見たジグリットは思わず、うな垂れた。彼はもっとごわごわした布が好きだった。麻や綿の敷布の方が寝心地が良かったからだ。埋もれそうなほど柔らかい敷布団に腰かけると、体重でものの見事に尻が沈んだ。ジグリットはもがくようにしてそこから這い出し、鎧戸のついた小さな窓辺に置かれた机から椅子を引っ張り出して座った。そして窓の外が暮れていくのを見ているうちに眠くなり、ジグリットは窓辺に伏したまま寝てしまった。




