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ナターシの目覚めは真昼を過ぎた頃と決まっていた。物心ついた時からそうなのだから、それが特におかしいとも思っていなかった。なんとか彼女が寝れるだけの狭い寝台の上で、寝返りをうつと、ギシギシと危なげな音がした。ナターシは気にせず夢の続きを考えていた。
眸の奥まで迫ってきた猛火が、ナターシの脳裏をいまだにじりじりと灼き付かせていた。暗緑色の髪の女が、ジグリットの名を告げた瞬間のことを、そして彼の命令だと言ったことを、ナターシは憎悪に奥歯を噛み締めながら、思い返していた。
短刀の刃が、小さな五歳のベルウッドの躰にめり込むのを彼女は見た。恐怖に錯乱したベルの断末魔が高く短く谺した。彼の胸は血まみれで、声が途切れたとき、少年は死に絶えていた。ナターシはそのとき自分が何をしていたのか。どこにいたのか。どうして助けなかったのか、思い出せなかった。ただ見ていたのだ。はっきりとこの眸で。
六歳のギーブは彼女が気づいたときには、すでに床にうつ伏せになって死んでいた。そうだ、とナターシは思い出した。あの女が入って来るまで、自分は寝ていたのだ。小さな寝台でその日の夕食のことを考えながら、ぐっすり眠っていた。
ナターシが起き上がって、逃げ回るベルウッドを見つけたとき、あの女は幼い彼を殺し、ナターシの悲鳴を無視して火の手を部屋に解き放った。炎がものすごい勢いで立ち上がり、女が笑っていた。さも可笑しそうに、蔑みに満ちた残酷な笑みを浮かべて。
「タザリアの王族であるジューヌ王子の影が、貧民窟で育ったなどと吹聴されては困るのよ」
あの女の言葉の何一つとしてナターシは忘れることができなかった。
「過去を葬り去るために、おまえ達にも死んでもらうことがジグリットの望みなの」
信じられなかった。あのジグリットが。誰よりも優しく勇敢なジグリットが。兄のように慕っていたジグリットが、そんな事を言うなんて。
「貧民窟の人間など、生きていても価値はないでしょう。所詮、おまえも遊女で終わるのが落ちなのだから、感謝すべきじゃない? それ以上、人生が穢れることもないのよ」
女の声が崩れ落ちた木材の轟音に掻き消される。女が生きてそこから逃げ出せたのかどうかも、ナターシにはわからなかった。煙と炎の中で、彼女は熾火のように赤く燃えた天井板に押し倒された。燃え盛る木切れの間に上階で寝ていたはずのテトスとマロシュが熱と炎にまかれて叫ぶ声が聞こえた。ナターシ自身は、泣き叫ぶことさえできないほどの痛みと共に、灼熱が顔を焼くのを感じた。人体の焼ける臭いが、自分から発せられていた。ナターシは死を望んだ。心の底から、純粋に死だけを望んだ。安らぎがそこにしかないことを、ナターシは感じ取っていた。
――ジグリットに復讐できるなら、命さえいらない。
――むしろ、あたしが生き残った理由はそこにしかない。
寝台から起き上がり、ナターシは机の上の白い仮面を眸にした。そして自分の右頬を撫でた。ひび割れた煉瓦をつたうような感触が、瘢痕状になった皮膚と共に憎しみを呼び起こす。しかしナターシは、今その時間がないことを感じ、数着しかない衣服の中から、薄紫色の木綿の上下衣を取り出して頭から被った。
南風舞踏座の昼の公演の時間が迫っていた。
――今日はあの子、夜の部に来るのかしら?
ナターシは最近、知り合ったばかりの黄金色の髪の少女のことを思った。そのときには、彼女の中の復讐の種は静謐さを取り戻していた。
南風舞踏座の夜の公演が終わった後、ナターシは劇場に残っていたアンブロシアーナと祈願大通りを歩いていた。二人は今日は東地区にできたばかりの林檎酒が美味しいと評判の店に向かっていた。
祈願大通りの行き止まりに、フランチェサイズ大聖堂があり、そこから西と東にまた太い通りが左右に伸びている。行き当たった場所はバスカニオン教の象徴ともされている椿の五弁花を模った紋様が、様々な色のタイルを使って地面を彩った広場で、夜だというのに、まだたくさんの人が行き交っていた。
東側の通りにあたる譚歌大通りへ足を踏み入れた二人は、通りを交差して流れる細い川を渡した橋を通っていた。陽気な手風琴の音色が川を下るようにして聞こえてくる。どこかの酒場から漏れてきた音楽は、ナターシを懐かしい思いに、そしてアンブロシアーナに異国の情緒を感じさせた。
アンブロシアーナは思い出したように言った。
「これ、うちの薬師が調合したの。あなたの顔にいいと思って」
彼女は濃紺の外衣の下から、薬の入った小瓶を取り出した。薬師のメイスターが一週間という早さで作ってくれたのだ。アンブロシアーナは誇らしげな気分で、それをナターシに差し出した。
しかしアンブロシアーナが思っていたのとは、まったく逆の反応をナターシは示した。彼女が予想外の態度を取ることは前にもあったが、これは完全にアンブロシアーナにとって、理解し難いことだった。ナターシは明るい少女神の笑顔を睨みつけた。
「いらない」ナターシは顔を背けた。
「え? どうして? 大丈夫よ、うちの薬師、もうお爺さんだけど、腕はいいの。あなたの火傷によく効く薬よ。練り白粉のせいで、ときどき痛むって言ってたでしょう、だから――」
「いらないって言ってるでしょ」
ナターシの激しい怒りにアンブロシアーナは後ずさった。
「あたしが一番嫌いな事をしないで」彼女は冷ややかに言った。
「嫌いな事? あたし、何かした?」
アンブロシアーナは、ナターシに自分がわからないうちに酷い事をしたのかと思い、困惑し持っていた薬の瓶を抱き締めた。くるりと背を向けたナターシの後頭部を見つめて、アンブロシアーナは考えた。一所懸命に自分がここ数日、彼女とした事や話した事を思い出そうとした。しかし、彼女の怒るような事がどの部分に起きたのか、見当もつかなかった。
「ご、ごめんなさい、ナターシ。あたし、何がそんなにあなたを怒らせたのか、わからないわ」
ナターシが振り返ると、彼女の顔の半分を覆っている仮面の隙間から、赤くなった瘢痕がほんの少し見えた。
「じゃあ教えてあげるわ、少女神様。わたしは施しを受けるのが何よりも、そうよ、短刀を持ってかかって来られる以上に赦せないの!」
アンブロシアーナは愕然とした。そんなつもりは微塵もなかった。ただ喜んでもらえれば、それでよかったのだ。だが、ナターシはそれを施しと感じ、傷ついたと言っているのだ。
「大聖堂では毎日のように、貧者が群がって一日の麺麭と野菜汁を恵んで貰っているでしょう。あたしのこともあんな風に見るのはやめて! それならいっそ、死んだ方がマシよ」
ナターシはカッとなった自分を抑える術を知らなかった。アンブロシアーナが傷つけばいいと彼女は心底思った。どれだけ酷い言葉を浴びせたら、この女は惨めになるだろうと、それだけをナターシは考えていた。
しかしアンブロシアーナは違った。彼女は確かに傷ついて、今にも泣きそうだった。そんな風にナターシを見たことなどなかったのに、これは誤解で、彼女を宥めるために、何を言って、何をすべきなのか、アンブロシアーナにはわからなかった。ただナターシを、初めてできた本当の意味での友人を、こんな誤解で失いたくなかった。
「施しなんかじゃない」強い口調で彼女は言った。「あなたを蔑んだ眸で見たことなんか一度だってないわ」
「だったらなぜ、そんな薬をくれると言うの? あたしにそんな高級な薬は、三晩躰を売ったって手に入らないと知っているでしょう」
「これは、あなたのために作らせたのよ。あなたの火傷がちょっとでもよくなればって思ったから。施しじゃないわ。そうよ、施しじゃない。友達だからよ」
アンブロシアーナは涙を押さえることはできたが、鼻を啜ることは我慢できなかった。すん、と鼻を鳴らした少女神に、ナターシは眸を見開いた。
「友達・・・・・・?」とナターシは不思議そうに、自分を恨みがましい眸で睨んでいるアンブロシアーナを見返した。
「そうよ、あなたがあたしを身分の違ういいとこのお嬢さんみたいに思っているのは知っているけど」
ナターシは少女神を神の次に偉い人だと思っていた。だから、アンブロシアーナの喩えは著しく外れていた。そんな安っぽい貴族の娘のように捉えていなかった。正しく彼女をこの世に存在する唯一の宝だと知っていた。
「あたしにとって、あなたはたった一人の友達なの。あなたがなんと思おうと友達だもの」
なんて身勝手で我儘な神の妻だろう、とナターシは思った。友達になど思えるわけがないのに、と。でもそれは彼女の怒りをものの見事に鎮めてしまっていた。ナターシは情けない顔で「友達だから」を繰り返す少女神に、根負けした気分で「わかった」と答えた。
「いいわ、あなたが施しじゃなく、友達からの贈り物だと言うのなら」ナターシは手を伸ばした。「あなたの贈り物をぜひ受け取らせてちょうだい」
アンブロシアーナの眸に溜まっていた涙が、ついに溢れ出た。
「ええ、あげる」少女神は舞台を観ているときのように、「うっうっ」と情けない泣き声を上げていた。「だってあたしが持ってたって仕方ないもの」と彼女は瓶を突き出した。
それはそうだろう。ナターシは複雑な気分で薬を受け取った。二人は並んで川の欄干の前に立っていた。通り行く人が、頭巾を被って泣いている少女と、薬瓶を手に困惑している仮面の少女をじろじろと見ていた。幾人かは小声でナターシの名前を呟いていた。南風舞踏座一の踊り子であることを自覚していたナターシは、早くここから立ち去らないと、明日にはどんな噂が街に流れるかと思い、気が気ではなくなった。ナターシはアンブロシアーナの肩を苦笑しながら、ぐいと腕で引き寄せた。
「さあ、もう行こうよ。林檎酒は限定五十杯までなんだよ? 売り切れちゃうって」
ナターシが覗き込んだ頭巾の中で、アンブロシアーナは慌てて顔を上げた。
「そうね、早く行かなきゃ!」
アンブロシアーナの顔にナターシは思わず吹き出した。彼女はもう泣き止んでいた。それどころか、必死の形相だった。くくくっ、と笑いを堪えようとしたがダメだった。ナターシがげらげら笑い出すと、アンブロシアーナはきょとんとした顔で彼女を見つめていた。
ナターシはアンブロシアーナが少女神であることをこのときばかりは忘れていた。そして、これから先、何度もそれを忘れることになった。




