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狭い三階の部屋に二人は入った。そこにはすでに明かりが点いていて、短くなった蝋燭が一本、小さな木机に載っていた。ナターシは窓にかけて干していた雑巾を取ってくると、それでアンブロシアーナの金色の流れるような髪についた卵をできる限り拭き取った。雑巾はあらゆる腐臭を吸い込んだような、奇怪な臭いを発していた。しかしナターシは構わなかった。とりあえず卵を落として、彼女を近くの公衆浴場へ連れて行くつもりだった。この部屋にも小さな雨浴器はあったが、それは地下を流れる川の水を汲み上げたもので、湯は出なかった。
この上流階級のお嬢さんらしい少女に、水をぶっかけてもよかったのだが、後々風邪でもひかれて自分のせいにされても困る。なのでナターシは、ひとまず雑に卵を拭き取ると、アンブロシアーナの外衣を掴んだ。
「さ、これも脱いで! 蛍藍月だってのに、こんな分厚いの着てたら暑いじゃないの!」
しかしこれには、アンブロシアーナも抵抗した。彼女は外衣の前をぐっと掴んだまま言った。
「だ、だめよ・・・・・・。これは着てなきゃ」
「何言ってんの! 卵がついてるわ。ほら、さっさと脱いで! 恥ずかしがらなくても、ただの外衣じゃない」
「そうじゃないの・・・ええっと・・・・・・」
アンブロシアーナは適当な理由を考えたが、何も思いつかなかった。結局ナターシの方が素早く、外衣を剥ぎ取ってしまった。
「ちょっと、あんた・・・・・・」
ナターシの絶句した顔が、部屋の薄明かりに浮かび上がる。アンブロシアーナは俯いた。
「他の服が見当たらなかったのよ」とアンブロシアーナは白絹の薄い寝巻き姿で言った。
ナターシはあんぐりと口を開けたまま、今度はアンブロシアーナの足元を見た。そしてさらにぎょっとした。連れ込んだ少女は裸足だったのだ。
「あんた、靴も履いてないじゃないの!」
「そうなのよね」とアンブロシアーナも足を見下ろす。
彼女の白い足は薄汚れ、爪の中にも泥が入っていた。
「ちょっとちょっと、そうなのよじゃないわ! 一体そんな格好で・・・・・・何考えてるわけ!?」
そうは言われても、とアンブロシアーナはなぜか怒っているナターシに首を傾げた。
「どうしても南風舞踏座の舞台が観たかったの」
呑気なアンブロシアーナの返答に、ナターシはさらに眸をひん剥いた。
「あのねぇ! 舞台は昼間もやってるの! 一日ニ回公演なんだから。昼に普通の格好して観に来たらいいじゃないのさ」
「そうもいかないのよ」
気落ちした様子のアンブロシアーナに、ナターシも何か事情があるのだと勘付いた。そして大きな溜め息をついた。
「そんな格好じゃ、公衆浴場だって行けないよ。ちょっと待ってて。うちの雨浴器を使いましょう。ちょっと寒いかもしんないけど」そう言ってナターシはてきぱきと動き出した。
ナターシが水浴びの準備をしている間、アンブロシアーナは蝋燭の仄かな明かりで部屋を見渡した。小さな部屋だった。戸口が一ヶ所。窓が一つ。部屋の隅に置かれた雨浴器と、壁に沿って置かれた古い寝台が、唯一場所を取っている以外、これといって物はなかった。
アンブロシアーナは不思議そうに眺めていた。こんな狭いところに住んでいる人が都会にもいるなんて、と彼女は妙な興奮を覚えていた。ずっと幼い頃。アンブロシアーナがフランチェサイズへ連れて来られる以前のことだ。彼女はレイモーン王国の草原に暮らす遊牧民の娘だった。彼女の価値は、遊牧民サジスとウラキの娘であることだけだった。彼女が五歳になるまでのことだ。
パスハリッツァの草原では、遊牧民の住まいは移動用円蓋天幕と呼ばれるもので、その狭い円形の屋根の下にひと家族が身を寄せ合って眠っていた。アンブロシアーナのかすかな記憶を、この部屋は思い起こした。彼女は泣きたくなるほど、切ない気持ちになった。今彼女の踏みしめる大地は冷たく、風の唸りはどこにも聞こえなかった。父と母、そして兄妹のことを思うと、アンブロシアーナは、いまやその声も顔もはっきりとは思い出せなかった。胸がじくじくと痛んだ。彼らの幸福と引き換えに、自分は主の妻でいなければならない。やがて主は、自分を天へ連れ去るだろう。そう、近いうちに――。
アンブロシアーナはナターシが呼ぶ声に、ハッとした。ナターシは麻の腰巻をまくし上げて、褐色の腿を顕わに雨浴器に片足を突っ込んでいた。
「ほら、早く。頭の上で卵が固まるわよ?」とナターシはふざけて言った。
「そうね」とアンブロシアーナは微笑し、着ていた寝巻きを脱ぎ捨てた。
アンブロシアーナに水を浴びせた後、ナターシは卵のついた外衣も洗い、窓から垂らしておいた。そして小さな湯沸しで薄い葡萄酒を温め、彼女に与えた。ナターシがどう見ても、この奇妙な客は由緒正しいお家柄のお嬢様だった。自分の髪さえ自分で洗ったことがなかったのだ。そんな話、今までお城のお姫様ぐらいしか聞いたことがない。そう思って見てみると、彼女は確かにお姫様に見えなくもなかった。美しい黄金色の髪は腰よりも長く、小さくまとまった顔は、愛らしい小動物のようだ。艶のある唇に、仕草一つとっても可憐で、何よりその白くしなやかな肢体は、良い物を食べて良い暮らしをしている証拠だった。ただ、裸足で歩き回ったせいで、彼女の桃色の爪は洗っても洗っても中の泥を取り出せなかった。
「あたし、あんたのことどっかで見たことあるのよね」ナターシは思い出そうとしながら言った。
寝台に座ったアンブロシアーナは、両手で葡萄酒を入れた木の杯を掲げながら、ごくごくと喉を鳴らしていたが、少し手を止めて頷いた。
「そうね、今日最前列に座っていたもの」
ナターシは首を振った。
「そうじゃないの。もうちょっと前に・・・・・・」
しかし、こんな良家のお嬢様にナターシが知り合う機会など、ほとんどなかったので、少し考えただけで答えに行き着くことができた。
ナターシは一瞬、自分の錯覚だろうか、と葡萄酒をすっかり飲み干して、こちらを窺っている少女を見やった。こんなところに、そんな高貴な人が、しかもひびの入った杯で安物の薄い葡萄酒を飲んでいるなんて、有り得るだろうか、と彼女は自問した。
しかし何度見ても、そっくりだったので、ナターシは恐々訊ねてみた。
「ねぇ、もしかしてとは思うんだけど・・・・・・」
アンブロシアーナは自分の前髪が長すぎるような気がして指で抓んで眺めていた。
「もしかしてよ!? あなたって、その、大聖堂に住んでたりする?」
アンブロシアーナは髪から指を離して、ナターシを見た。
「それにね、もしかしてよ!? 数えない日に誕生祭に出てたりした?」
アンブロシアーナは顔をしかめた。どうやら、ワルド大司祭の言った通りらしい。以前、ワルド大司祭が、少女神の顔を知らないバルダの民はいないと、偉そうに言っていたのだ。それは誇張だろう、と彼女は思っていたが、どうやらここフランチェサイズでは本当らしい。
「ええ。あたしは大聖堂に住んでるし、誕生祭にも出たわ」彼女は半ば諦めて答えた。
「じゃあやっぱり! あなた・・・・・・少女神!?」
この後のナターシの反応が、アンブロシアーナには眸に見えるように予測できた。彼女はきっと跪き、泣き出しそうな顔で頭を下げるのだ。「赦してください、少女神様」と。「主への誓いと同等に、わたしはあなたへすべてを委ねています」そんな風に。
ところがナターシは、少女神が経験したこともないような、驚愕の反応を示した。
「そ、そっか。少女神か。驚いたなぁ、もう」
「・・・・・・驚いた?」アンブロシアーナの方が驚いた顔をした。
「じゃあ大変だね」
「・・・・・・大変!?」彼女はさらに眸を見開いた。
「だってそうでしょう。主なんているかいないかわかんないようなオッサンのためにさ、妻になって身も心も捧げてあげてんだから」
「・・・・・・オッサン!?」
「あ、じゃあさ、あたしって少女神に卵をぶつけたわけだ! うわ、すごくない? 自慢できるかな? でも、もしかしてこれって呪われたり・・・」
「しません!」
あまりの驚きにアンブロシアーナは釣られたように口を尖らせ否定していた。
「あーよかった。じゃあ、あたしも水浴びてくるから、服乾くまでそこらのもん勝手に食べてて」
「えっ? 食べる?」
「あたしはこの時間に夕食摂るの。踊る前に食べると動きが悪くなるからね。いらないなら、いいけど。まぁ、待っててよ」
ナターシはアンブロシアーナがいるというのに、気にもせずに上衣と下衣を脱ぎ捨て、顔に仮面だけをつけたまま、雨浴器に近づいて行った。
アンブロシアーナはまだ驚愕の中にいた。彼女は眸をぱちくりさせて、こちらに裸の背を向けている少女の褐色の肌と、同じ色の髪を眺めていた。
――あたしが少女神だって知ったのに・・・・・・普通の態度だわ。
――バスカニオン様のこと・・・オッサンだって・・・・・・。
――少女神に卵ぶつけて、自慢できるかなって・・・・・・。
アンブロシアーナは主を敬わない人間を初めて見た。それと共に、少女神に畏敬の念を抱かない人間に会ったのも初めてだった。いや、一人だけ彼女を彼女として扱ってくれた人物がいた。ジグリットだ。少女神であることより、アンブロシアーナであることを認めてくれる人。それは彼女にとって、何よりも得難い本当の友人という願望を叶えてくれる人を指していた。
――ナターシと友達になりたい。
アンブロシアーナは心の底からそう願った。少女神ではなく、アンブロシアーナの友人だ。一緒にくだらない事で笑いあったり、喧嘩したりできる人だ。相手のいいところも悪いところも受け容れて、それでも一緒にいてくれる人だ。
――どうすれば友達になれるのかしら?
しかしアンブロシアーナはいまだかつて、本物の友達を作ったことがないので、その術を知らなかった。
――友達って、頼んでなってもらうのはおかしい気がするわ。
――それに今気づいたけど、友達どころか、彼女に迷惑をかけているんじゃないかしら?
――外衣を洗ったり、髪を洗ったりさせるのって、失礼にあたることかもしれないわ。
――もしかして、ナターシはすごく怒っているかも。
――だとしたら、謝った方がいいの?
アンブロシアーナはぐるぐるぐるぐると考えを巡らせていた。その間にナターシは水浴びを終え、手に仮面を持ったまま、こちらを向いた。アンブロシアーナはすぐには気づかなかった。彼女はまだ真剣にどう切り出すべきかを悩んでいたし、それに対するナターシの反応を想像するだけで手一杯だったからだ。
なので、裸のナターシが雨浴器から出てきて、仮面を机に置いたときに、アンブロシアーナは初めて彼女の顔を真正面から見た。褐色の髪を頭の上でくるりと巻き上げたナターシは、まだ少女の様相を呈してはいたが、膨らみ始めた胸を惜しげもなく晒して立っていた。手拭で躰を拭いているナターシの顔を、アンブロシアーナはじっと見つめていた。その右半面を覆う痛ましい瘢痕は、白い仮面のように、彼女の顔の半分に喰らいついていた。蝋燭の明かりでも、それが死に足を踏み入れただろう火傷だったことは察することができた。
アンブロシアーナは何も言わなかった。ただ悲しく思った。これから友達になろうとしている少女が、すでに死を知っていることを、悲しく感じた。
――友達など作らない方がいいのかもしれない。
一瞬、そう思いさえした。二人が友人になって、もしナターシが少女神は短命であることを知ったら、彼女は死を感じたことのある者だけが知る、やる瀬ない哀愁に苛まれるだろう。それは彼女に重荷を背負わせるということだ。
アンブロシアーナは泣きたくなった。しかしそれをナターシは別の意味に捉えたらしかった。彼女は明るくにっと笑った。
「あんたって口が軽そうには見えないし、ほら友達いないって言ってたから。これを見ても平気かと思ってさ」
ナターシの勇気が、アンブロシアーナの心を揺らした。
「・・・ええ、誰にも言わないわ」と彼女も微笑した。
「よかった。この火傷のこと知ってるのって、南風舞踏座の座長と数人の仲間だけなんだ」ナターシは白い仮面を手に取った。「観客にはさ、楽しい思いだけして帰って欲しいじゃない。こんな疵見たら、喜劇も悲劇になっちゃうからさ」
アンブロシアーナは胸が詰まって、返事ができなかった。ナターシの華麗な踊りが、どれだけ人を魅了することができるか、どれだけ人を熱狂させることができるか、それを思ってアンブロシアーナはもう一度にこりと微笑んだ。
「あたし、ナターシの踊りが大好きなの。あんな風に激しく踊ったことないわ。あたしも次の誕生祭まで練習、がんばってみる」
ナターシは慌てるように手を振った。
「ちょっとちょっと、それはヤバいって。誕生祭であたしみたいな下品な踊り方したら、あんた少女神、クビになっちゃうわよ!?」
「そうかしら?」とアンブロシアーナは笑いながら「クビになるのもいいな」と言うと、ナターシはもっと激しく手を振った。
「そんなことになったら、大変だよ! 確かに少女神させられてるのは、気の毒だけどさ。大聖堂がしっちゃかめっちゃかになって、その上、狂信者が暴動とか起こして、フランチェサイズどうなっちゃうの~~ってなことになるかもしんないでしょ!」
ナターシの妄想にアンブロシアーナは可笑しくなって、あははっと声を出して笑った。すると、ナターシも笑顔を向けた。
「あんたさ、また舞台観にきなよ。頭巾被ってさ。最前列で声出して泣かれると、南風舞踏座のみんなもやる気出ると思うし」
「知ってたの!?」アンブロシアーナは眸を丸くした。
「そりゃね、舞台から観客席って結構よく見えるんだよ。真ん前であんな派手に泣いてる客、初めてだったしね」
アンブロシアーナは恥ずかしさに頬が赤らんだ。
「うまく抜け出せたらだけど、きっとまた行くわ」
決意したように言ったアンブロシアーナに、ナターシは明るく答えた。
「うん、待ってる」




