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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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          5


 タザリア王国の国民とはいえ、首都チョザに居を構えている人ですら、王家の王子の顔を覚えている者は少ないだろう。まして、チョザから35リーグ離れたエスタークで、街から出たこともない少年にとっては、その名を聞いたことがないのも当然だった。

 ジグリットはグーヴァーの説明が単なる冗談か、もしくは盗人を王都(チョザ)へ連行し処刑するための甘言にしか思えなかった。だがグーヴァーが言うには、ジグリットはタザリア王家の王クレイトス・タザリアの嫡子、ジューヌ・タザリア王子に瓜二つで、その背丈や年齢もさることながら、容貌に関しては如何(いかん)ともしがたいほどに似ていると彼は熱弁した。

 しかし、それを言うなら、なぜ他の兵士やファン・ダルタがジグリットと王子が似ていることに気づかなかったのか。それは王子が、ほとんど王宮内の自分の宮殿から出ないせいだった。王子ジューヌは病弱な上、滅多に類を見ないほどの内気で、半ば隠遁生活のような暮らしをしているというのだ。実際、普通の兵士は王子と面通ししたことはなく、炎帝騎士団の騎士でさえ彼とは公式の場で数度お見かけしただけというほどだった。

「私はジューヌ様に、月に何度か武術をお教えしている」炎帝騎士団の騎士団長グーヴァーは、ジグリットの左手に包帯を巻きながらそう言った。「だから私がジューヌ様のお顔を忘れることはないし、むろん間違えることなどない」

 はっきりと言い切った彼に、ジグリットは診療所の木製の丸椅子の上で困ったように顔をしかめた。声が出ないことは、すでにグーヴァーも知っている。マロシュが彼らに言ったからだ。

 そのマロシュは、グーヴァーが鼓膜が破れんばかりの声で叫んだ直後、息を切らしてその場に現れた。今頃テトスが心配になったらしい。そして、そのテトスとマロシュは、いま部屋の外の廊下にある長椅子(ベンチ)からこちらを覗き込んでいた。たまにコソコソと二人で何やら囁き合っているが、どうせろくなことじゃないだろう。

「その私が間違えたのだから、君は驚くほどジューヌ様に似ているというわけだ」

 グーヴァーはまだ一人喋っている。ジグリットはいい加減、その話を打ち切って、自分たちを処分するなら、どう処分するつもりなのか、そのことを話して欲しかった。しかし声が出ないのでそう促すことも無理だった。

 ジグリットが誰が見ても不機嫌にしか見えない顔をしているのにようやく気づいたグーヴァーは、勘違いもいいところで治療を終えた手を見て微笑んだ。

「大丈夫だ。腱まで切れてはいない。そうだろう、先生」

 診療所の年老いた医師は、普段なら貧民窟(スラム)の人間なんか診ることもないくせに、今日ばかりは騎士団のそれも騎士長の前とあって、媚びへつらうようにへらへらと笑った。

「もちろんですよ。これぐらいの傷、すぐに塞がりますよ」

「だとさ、よかったじゃないか。ええっと・・・・・・ジグリット、だっけな」

 グーヴァーはマロシュに聞いたジグリットの名前を記憶から引っ張り出すようにして言った。ジグリットは小さく頷いた。

 ジグリットの手のひらとすべての指を横断した長剣による裂傷は、骨に達していたが、運良く神経までは切れていなかった。しばらく使いものにはならないが、ジグリットにとっても、そして漆黒の騎士ファン・ダルタにとっても、それは良い報せだった。

「ファンのことを許してやってくれ。あいつの言い分では、君達を少し脅してやろうとしただけらしいんだ」

 グーヴァーが謝るのをジグリットは複雑な気持ちで聞いていた。それが真実(ほんとう)とはとても思えなかったからだ。あの漆黒の騎士は、確かにジグリットが剣を掴んだ瞬間、驚いていた。しかし、それはテトスを殺すのを阻止されたからで、ジグリットが怪我したからだとは到底考えられなかった。

 いま、その当のファン・ダルタは診療所の外に待機している。グーヴァーがそう命じたからだ。

「あいつは本当に悪いヤツじゃあないんだ。信じてくれ、ジグリット」

 グーヴァーが真剣な眸で訴えるのをジグリットは正面から見返した。ジグリットがちゃんと聞いていることを知り、グーヴァーは重苦しい顔で続けた。

「ただなぁ、騎士団の中でもあいつほど職業軍人気質のヤツはいない。強いて言えば、服従と忠誠は篤いが、規律を絶対視し過ぎる感がある。わかるか?」

 ジグリットは小難しい言葉を頭の中で反芻して、ゆっくり理解した。そして頷いた。

「許してやってくれるか、ジグリット?」

 グーヴァーはすぐにジグリットがまた頷くと思っていたようだが、彼は頷かなかった。

「許したくないか?」

 ジグリットはそういう問題じゃないと思っていた。彼らは騎士であり、自分たちは盗人だ。それが本当のところだ。だから、それはこっちの台詞だったのだ。

 廊下で聞いていたテトスが黙っているジグリットに耐え切れず、部屋へ入って来た。

「ジグ、もう許してるんだろ?」とテトスはジグリットの考えとは見当違いなことを言った。

 ジグリットは説明するのが面倒臭くなっていた。声が出ない分、物事を一つ説明するのに嫌と言うほど苦労しなければならない。そしてそれがイライラするほど不愉快だった。

 ジグリットの関心事はたった一つ。自分達がこれからどう処罰されるかだけだった。しかし諦めて、溜め息をついてから、大きく頷いた。

「おお、よかったよかった。許してくれるか」

 グーヴァーが無邪気に喜ぶのを、ジグリットは冷めた眸で見つめた。処罰を受けることになれば、この傷よりさらに酷いことをされるに決まっている。こんな傷は自分にはどうってことはない傷だった。

 テトスはすでに盗人として捕まったことすら忘れていそうだった。ジグリットは治療が終わり、部屋の隅で所在無く立っている医師が、騎士長と貧民窟の孤児に早くここから出て行って欲しいと思っているのを感じた。医師はまだへらへらと笑みを浮かべていたが、その顔は滑稽なほどに引き攣っていた。

「それじゃあジグリット、まだ話も残っているし、わたしと一緒に来てくれるかな?」

 グーヴァーが立ち上がると、医師はホッとした表情をした。そしてグーヴァーから治療代に銀貨二枚と金貨一枚の計一万二千ルバントを受け取ると、三人をまた夜の街に送り出した。

 診療所の外には、瓦斯(ガス)灯の明かりから外れて暗闇に埋もれた漆黒の騎士が、忠犬のように立っていた。グーヴァーが彼に声をかける。そしてさらに兵二人が同行し、ジグリット達はどこへ行くとも知らされず、診療所のある路地から西広場へと向かった。


 西広場の呑み屋街はちょうどピークに達しているところだった。すべての酒場の店先から、酔いどれ客の騒がしい声が響き、男と女が肩を組み遊里へ向かって行く。赤ら顔の男がふらふらと出てきた店に、ジグリット達は交代に入って行った。

 そこは数ある大衆酒場の中でも、一番客席の多い広い店だった。店内は所狭しと客がひしめき合い、天井でぐるぐる回る扇風機は何の意味も持たず、空気は煙草の煙で澱み切っていた。

 そこが『銀河亭』という酒場であることは知っていたが、ジグリット達は初めて中に入った。酒場の外で仕事を毎夜していたが、十四歳になるまで酒を呑んではいけないとタザリアでは決められていたからだ。しかし、いま彼らを(とりこ)にしているのは、その酒ではなく別の物だった。

 ジグリットはテトスとマロシュを右手に、左は見知らぬ兵士に挟まれ、本来なら三人掛けの長椅子に四人がかりで座り、息が詰まりそうになっていた。その息をするための口は目の前に出された豪勢な食事のため、間断なく塞がっていたので、鼻はひん曲がりそうな煙草の臭いを我慢して吸い込むしかなかった。

 横のテトスとマロシュも同様で、彼らはまるで久しぶりに獲物にあり付いた肉食獣のような激しさで、皿に載ったすべての食べ物に喰らいついていた。

「そんなに慌てなくとも、腹一杯になるまで喰わしてやるぞ」とグーヴァーは笑った。

「はんへほんらほほふふんへふ?」

 テトスが口に羊の腸詰めを文字通り詰め込み、解読不明な言葉を発する。二人の兵士は呆気に取られたように、三人の少年達を眺めていた。

「こいつら一体どうする気です、騎士長?」

 マロシュは口に入れた物体を咀嚼することを諦め、目の前の蜂蜜酒(ミード)で肉を豪快に流し込んでいる。

「どうするって、腹一杯にするんだ。決まってるだろう、ここは食い物屋だぞ」

 グーヴァーの答えに、兵士の一人ジャノウは溜め息を漏らした。

「それはわかってますよ、見ればね。でも騎士長、エスタークには大きな貧民窟があって、孤児は彼らだけじゃないんすよ? すべての孤児にこうやって施しをする気ですか?」

「そうじゃない。それにこれは施しなんかじゃないぞ。無駄口叩いていないで、おまえも食え。呑め。さっさとしないと、このままじゃ、この店の食い物すべてこいつらの腹に収まっちまうぞ」

 茱萸酒(ぐみざけ)を手にグーヴァーが言うと、さすがの兵士二人もそれが冗談とは思えなくなったのか、蒸留酒(ウイスキー)をぐいと(あお)った。逆に、ずっと黙って火酒(ウォッカ)を呑んでいるのはファン・ダルタだった。彼は眉間に深い皺を刻んだまま、机を睨み、ときに店のあちらこちらのテーブルで酔っ払って騒いでいる客に次々と(ガン)を飛ばした。

 そして、ジグリット達の腹が食べ物ではちきれそうに膨らんだ頃、ファン・ダルタはようやく口を開いた。

「グーヴァー騎士長」と彼は澱んだ空気の中で低く掠れた声を出した。

「ん? なんだ、ファン」

「いい加減、どうなさるおつもりなのか、聞かせていただけませんか。今回のことはわたしの落ち度もありますが、彼らが盗みを働こうとしたことも事実。彼らだって――」そこでファン・ダルタは斜め前の席からなぜかジグリットだけを睨みつけた。「知りたがっているはずです。どう処罰されるのか」

 それが間接的に自分に向けられた言葉だとジグリットは気づいたが、素知らぬ顔で鶏の煮込みを掻き込んだ。それとは対照的に、ようやく自分達が忘れていたことを思い出したテトスとマロシュは、陽気な宴が一気に最後の晩餐になったかのような情けない顔つきになり、皿と口を行ったり来たりしていた手がぴたっと止まった。

 グーヴァーはファン・ダルタの黒い眸に静かに問い返した。

「おまえはどうすべきだと思う?」

「わたしは彼らをこの街の警吏に引き渡すべきだと考えます。もちろん、このような施しは不要です」ファン・ダルタは即刻応えた。

「なるほど。しかしわたしは言わなかったか?」グーヴァーはファンと、そして兵士二人を順に眺めた。「彼はジューヌ様にそっくりなのだ」

「そのようなことは、関係ありません」兵士の一人が言う。

「関係ないだと・・・」

 グーヴァーの声質が変わったことにジグリットは気づき、口に蜂蜜酒(ミード)の杯を咥えたまま、彼を見上げた。グーヴァーは眸を吊り上げ、いきなり立ち上がった。

「何が関係ないものかっ! この莫迦(ばか)どもがッ!!」

 ガンッとグーヴァーは茱萸酒の杯を、激しく机に叩きつけた。その拍子に杯の底が抜け、三分の一ほど残っていた中身が机に漏れ広がった。

「おまえ達はそれでもタザリアの兵士か! それでも騎士か! 戦っていさえすれば国の為になるとそう思っているなら、それは大きな間違いだぞッ!!」

 兵士二人が驚いて背筋を伸ばす。しかし、漆黒の騎士ファン・ダルタだけは、いまだ手に火酒の杯を持ち、冴えた眸で騎士長グーヴァーの怒りの形相を見つめていた。

「タザリアの王、クレイトス様の次代の後継ぎは、第二夫人ラシーヌ様との間にお産まれになったタスティン様か、正妃エスナ様との間にお産まれになったジューヌ様かのどちらかになるだろう」そこでグーヴァーは席につき、声を抑えた。「わたしは王はジューヌ様にその跡目を譲るだろうと考えている」

 ジグリットは王宮内の話をこのような酒場ですべきでないのではなかろうかと思ったが、隣りにいるテトスとマロシュは真剣に聞き入っているし、自分も少なからず興味が出てきたので静かに杯を置いた。

「そしてジューヌ様がお継ぎになられるなら、その補佐役は多いに越したことはないだろう。なぜならあのお方は生来、心も躰も並みの者より繊細だ。信頼できる者であの方の周りを固めることは必要不可欠なのだ」

 ジグリットはそれと自分達を罰することとの関連がさっぱり見えなかったが、次にグーヴァーが発した言葉ですべてを悟った。

「わたしはジグリットを王宮へ連れて行くつもりだ。そして、あの方を守る最強の盾とするつもりだ」

 グーヴァーを含め、全員がジグリットを見た。ジグリットも、もし鏡があれば穴が開くほど自分を見ただろう。貧民窟の孤児でちっぽけな十歳の少年が、この国の次の王になると言われているような人物を守る最強の盾になるとは、想像すらできなかった。ジグリットの夢は兵士になることだった。そして、その夢の先は彼にはいまだ思いつきもしない遠い事象でしかなかった。


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