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――冗談じゃないわよ!
ナターシは夜の通りを駆けながら、心の中でつける限りの悪態を吐いていた。
――あの好色おやじ!
彼女はバルメトラが連れて来た南風舞踏座の後援者と引き会わされていた。ナターシはそいつが、蛆虫よりも嫌いだった。
舞台が跳ねてすぐに、ナターシの命の恩人でもある女性、バルメトラが現在の恋人でもある後援者を連れて来ると、彼女は嫌々ながらも挨拶した。しかし事もあろうに、その中年の貿易商は、ナターシの着替え中に訪れたばかりか、彼女の素足をねちっこく撫でたのだ。芋虫のような指で!
――ああ、もう! 早く帰って水でも浴びないと、腐る! 脚から腐るッ!!
ナターシが懸命に走っていたのには、そういう理由があったのだった。彼女は飛ぶように集合住宅の一郭にある自分の部屋に戻って、冷水を頭から被らなければ、気が済まなかった。踊りで火照った躰と、血が昇った頭が熱くてたまらなかった。
祈願大通りの大聖堂へ向かうまっすぐな道から東に折れ、彼女は通りをさらに走って行った。それから今度は南へ折れると、そこはもう猥雑な下層民の家々が犇き合う住宅街だった。
ナターシを追っていたアンブロシアーナにとって、それは未知の世界の現れでもあった。アンブロシアーナはナターシを追いつつも、見たことのない、くすんだ灰色の漆喰壁が隣りの家々を侵食し合うのを見た。ごちゃごちゃと通りにまではみ出しているのは、子供の玩具やら萎びた植物が植わった花壇だ。
街灯の一本もない暗闇の道を、ナターシは夜行性の獣のような敏捷さで駆け抜けていた。アンブロシアーナは彼女の通った道を重ねるように追っていたが、ナターシが三本の横道を素通りして四本目にある、人が二人やっとすれ違えるだけの小道へ入った途端、道にせり出していた屑籠に足を取られた。開いたままの蓋が落ち、アンブロシアーナは慌ててそれを拾ったが、あまりの腐臭にまた落としてしまった。魚や生物の饐えた臭いに、彼女は顔をしかめた。溢れ出した芥を蓋でぐっぐっと押し込め、なんとか閉めたときには、一人きりで暗闇に立っていた。
アンブロシアーナは頭巾を取って、辺りを見回した。ナターシが曲がって行った横道へ向かうと、そこはさらに暗い袋小路になっていた。両側と突き当たりに、四階建ての集合住宅が建ち、足を踏み入れるのに勇気がいるような陰湿な雰囲気を放っていた。アンブロシアーナは思案するように、両側、そして突き当たりの建物を眺めた。それらはどれも同じように古く、どれも不気味なほど威圧感があった。
――ナターシはどこへ入ったのかしら?
間違った建物に入った途端、恐ろしいことが起こりそうで、アンブロシアーナはなかなかそこから動けなかった。しかし、突き当たりの建物の中から、彼女に向かって何かが投げつけられた。アンブロシアーナの頭にそれは見事に命中した。
「キャッ!」彼女は叫んでその場で飛び上がった。
よく見ると、それはぬるぬるとした粘液状のもので、どろりと不透明な塊となって、頭から地面にべしゃっと濡れた音をたてて落ちた。
「な、なにこれ・・・・・・」
アンブロシアーナが呟くと、頭上で誰かが声を上げて笑った。
「あれ? もしかして女の人? ああ、変質者じゃなかったの? ごめんごめん、もしかして南風舞踏座の客?」
見上げたアンブロシアーナの眸には、暗闇でぼんやりとした影にしか見えなかったが、確かにそれは若い女性の声だった。
アンブロシアーナは、安堵して言い返した。
「ええ、そうです。こちらこそごめんなさい。驚かせてしまって」
「それはお互い様!」声の主は建物の階段部分らしい小さな窓から頭を突き出していたが、ひゅっと引っ込めて、軽やかに階段を降りて来た。
アンブロシアーナが立っている場所へナターシはやって来ると、眸を眇めて誰なのか判別しようとした。街灯のない場所で向かい合っても、アンブロシアーナには、ナターシの腕さえどこにあるのか暗くて見分けがつかなかった。しかしナターシは、初対面だとわかって顔をしかめた。
「悪いけど、客にここまで来られると困るんだよね」とナターシは言った。
アンブロシアーナもそれはわかっていると言いたげに、神妙に頷いた。
「ごめんなさい。つい・・・・・・。大通りであなたを見かけたものだから。今日の舞台、とても素敵だったって言いたくなっちゃって」
ナターシは自分が投げつけた卵を頭から被った少女を、またじっと見つめた。暗闇でもナターシの眸はよく見えた。金色の長い髪に、ねっとりと絡みついた卵や、すっと通った白い鼻梁まで。そこで彼女は、うん? と考えた。どこかでこの少女を見たことがあるような気がしたのだ。しかし今は思い出すよりも先に、この綺麗な髪についた卵を落とさないといけないだろう。
これほど見事な黄金色の髪を、ナターシは見たことがなかった。南風舞踏座の少女達でも、ここまで手入れされてはいない。ナターシはアンブロシアーナの手を掴むと、自分の家でもある陰気な正面の建物へ彼女を連れて入った。
アンブロシアーナはまったく抵抗せず、腕を引かれるままに、その暗くじめじめした階段を昇って行った。そこは黴と埃の臭いの混じった、アンブロシアーナにとって未知の世界だった。彼女はわくわくしていた。卵を頭にぶつけられたのも初めてなら、こんな臭いを嗅ぐのも、同じ年頃の少女と普通に会話していることも初めてで、夢の中でもこんなに面白いことが起きたことはなかった。




