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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
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          3


 祈願大通り(オラショ・アベニュー)の裏通りにある南風舞踏座(エウロス)の劇場には、その日も溢れんばかりの熱気が()もっていた。舞台に当てられた照明は、熱気で靄のように拡散し、さらに幻想的な雰囲気を作り出していた。観客は(ひしめ)き合うように、舞台前に並べられた簡素な木製の椅子にかけ、全員が身を乗り出すようにして舞台に熱い視線を送っていた。

 舞台上では、最後の一幕が始まっていた。今日の演目は『宮廷のルイザ』。ある王国の宮廷で働く端女(はしため)のルイザが、宮廷に訪れた楽師の一人と恋に落ちるが、やがて楽師は彼女を残して去って行く。恋をして美しくなったルイザは、宮廷の王子の眸にも止まり、彼女は王子に求婚される。しかし楽師のことを忘れられなかったルイザは、宮廷から去り、楽師を追う。ところが、追いついたと思った楽師は、不治の病に倒れていた。第三幕はここから始まる。

 すでに手巾(ハンカチ)を手に、嗚咽(おえつ)を漏らす女性が列をなす中、一番最前列で「うっうっ」と苦しげな声を上げながら、頭巾(フード)を被った小柄な人物が肩を震わせていた。

 南風舞踏座の舞台には台詞は一言もない。役者達はみな、踊りでその状況や心情を表現する。舞台の中央に置かれた寝台(ベッド)の上で、真っ白な死装束に身に着けた一人の男性が眠っている。その周りには、死神が群れをなして踊り狂っていた。

 ナターシは上座から軽やかに飛び出した。褐色の髪がふわりと(なび)く。鮮やかな黄色の薄い布を(まと)って、音もなく精霊のように爪先で降り立った彼女は、そのまま細く伸びたもう片方の脚を背筋に向かって抱え上げた。観客席から羨望(せんぼう)の溜め息が漏れる。しかしナターシの白塗りの顔は、困惑と絶望に満ち、右半面は不気味な白い仮面に覆われていた。それはこれから訪れるルイザの不幸そのものだった。

 寝台の男性に駆け寄ろうとしたルイザを、死神達が邪魔をする。彼女は弾き飛ばされ、舞台に何度も倒れた。手巾を握り締めた観客が、彼女が倒れるたびに悲痛な声を漏らす。

 ルイザが死神を圧倒するような、深い愛と優しさを表現する踊りに入ると、一人、また一人と、死神は消え去って行った。そして愛しい楽師の側にようやく辿り着いたルイザもまた、その場で力尽きてしまう。楽師の病は恐ろしい伝染病だったのだ。しかし彼の(もと)へ辿り着いた彼女の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいる。

 ゆっくりと緞帳(どんちょう)が降り始めると、観客はすでに濡らした手巾を、今度は立ち上がり、懸命に手を上げて振った。最前列の頭巾の人物も、後ろの人々がしているのを真似て、同じように手巾を振る。しかし彼女の心には、まだ悲恋の名残が強く、手巾を振りながら、少女は嘆いた。

「あんなの酷いわ。可哀相すぎるわ」そしてまた「うっうっ」と泣き出した。

 しかしそんな女性が山のようにいたので、誰も彼女に眸を向けなかった。舞台の緞帳がするすると巻き上げられ、今度は出演者が総出で整列して、頭を下げる。アンブロシアーナは手巾を振りたくった。そして可哀相なルイザと、優男(やさおとこ)風の楽師をじっと見つめた。二人はもちろん今は笑っていたが、アンブロシアーナの眸には、ルイザがまだ切なげに憂いているのがわかった。

 ――どうして舞台がうまくいったのに、悲しそうなのかしら?

 彼女が不思議に思っていると、緞帳がまたどすんと降りてきた。今度は待っても幕は上がらないようだった。観客達は口々に舞台の感想を述べながら、椅子の間を通って劇場を出て行く。アンブロシアーナは遅れないよう、慌てて頭巾を深く被り、劇場を後にした。

 外は街灯の薄明かりが点在しているだけで、月もない深夜だった。もう二時間もすれば日付が変わる頃合だ。アンブロシアーナは濃紺の外衣(マント)の前をかき合わせて、一人とぼとぼと裏通りを歩き出していた。一人で街へ出たのも初めてなら、こんな夜に歩くのも初めてだった。舞台を観たのも初めてだし、もちろんこっそり聖堂に連なった白亜の建物から抜け出したのも初めてだ。

 アンブロシアーナの胸は痛いほど高鳴っていた。それは恐れと興奮、そして喜びに満ちていた。見つかれば、ただでは済まないだろう。自分の身が自分だけのものではないことを、彼女は理解していた。それでもどうしても外へ行ってみたかったのだ。その好奇心と冒険心には抗えなかった。彼女は少女神(コレツェオス)という名を与えられてからというもの、自由とは無縁の生活を送っていた。退屈で、面白味のない生活。聖堂で働く人の八割は男性だったが、彼らはほとんどが年老いていた。そして残りの女性達は、優しく教養のある人ばかりだったが、少女神と接する距離にいつも気を配っていた。

 アンブロシアーナ個人には、同じ年頃の友人は一人もいなかった。少女神としての知り合いが各国にいたが、それは彼女が少女神だから知り合ったというだけの、名ばかりの友人達だった。彼女が唯一、個人的に出会った少年、ジグリット。しかし彼もまた遠い異国の少年で、おいそれと会うことのできない人だった。

 アンブロシアーナはジグリットのことを想った。彼は今、どうしているだろう、と。タザリアのジューヌ王子の影であるジグリットは、彼女よりも世界を知っていた。彼女よりもたくさんの友人がいるようだった。そして、信頼できる人も。

 ――あたしには誰もいない。

 アンブロシアーナは祈願大通りへ出る岐路(きろ)で立ち止まった。蛍藍月(けいらんづき)だというのに、冷えた夜風が外衣に吹きかかり、彼女は頭巾が脱げないように手でしっかりと押さえた。

 ――たった一人でいい。友達がいたら・・・・・・。

 アンブロシアーナがそう願ったときだった。彼女の真横を向かい風をものともせずに、一人の少女が駆け抜けた。頭巾を押さえたまま、アンブロシアーナは少女の後ろ姿を眸にした。

 褐色の髪が夜の淡い街灯の光に輝きながら、少女の背で(きら)めきながら揺れていた。細い足先が煉瓦(れんが)を敷き詰めた大通りで、ほとんど音も立てずに遠ざかって行く。

「ナターシだわ!」アンブロシアーナは驚きながらもそう口にして、なぜか走り出した。

 ――南風舞踏座の踊り子、さっきのルイザ役の少女だ。

 絶対に間違いじゃない自信があった。後ろ姿だけでも、彼女の身軽な疾走と躰つきには、特徴があった。繁栄の儀(プロスフェストゥム)で主への踊りを披露するアンブロシアーナは、古典様式の躍りに精通していたが、ナターシの踊り方はまたそれとは違って、とても躍動的で華やかな魅力に溢れていた。

 ――あんなに綺麗に力強く踊る人は、聖堂の教師にもいなかったわ。

 慌てて追いかけるアンブロシアーナに、先を行くナターシはまったく気付いていなかった。なぜなら彼女は・・・・・・怒り狂っていたからだ。


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