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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
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 フランチェサイズの一般市民が、目抜き通りとされている祈願大通り(オラショ・アベニュー)から、一本裏通りに入ったところにある舞踏座に熱を上げていることは、フランチェサイズ大聖堂にも聞こえてきていた。バスカニオン教では、女性の踊りは神聖なもので、神へ捧げる祈りを宿したものだとされている。なので、それを利殖(りしょく)(かて)にしようなどという不貞な行いは、恥ずべきものだった。

 とはいえ、それは年老いた教団の大司祭か、または狂信者(ツェペラウス)が言うことで、市民はあまり重視していなかった。

 アンブロシアーナも同じ気持ちだった。彼女は大聖堂の南西翼にある建物の一室で、うんざりしたような表情で机に突っ伏していた。

「あーあ」と彼女は不服の声を漏らした。

少女神(コレツェオス)様、そのような態度ではいけませんぞ」

 白鬚(しろひげ)の大司祭は机の向かいから、彼女のだらりと伸ばした両腕を、持っていた細い尺棒でピシリと叩いた。しかしそれは大した痛みを彼女に(もたら)さなかった。

 アンブロシアーナは鎧戸の外に見えるトネリコの木を眺め、もう一度「あーあ」と呟いた。長い黄金色(こがねいろ)の髪が机一面に広がる。

「まるで、あたしってあの木のようね。ずっと同じ場所にいて動けないの」

 大司祭はそれを聞いて、眉を寄せた。

「少女神様、ご自分を指すときは“わたくし”と言っていただかなくては。それに、あの木のようとはハテ? わたくしには少女神様がこの部屋へ入ってから、まだほんの二十分しか経っていないような気がしますがね」

 部屋の隅に立っている穂先を上にした槍状の物体が、淡く赤い光を発していた。それはウァッリスから輸入した魔道具で、一日の時間を下から上へと光の高さが昇って行くことで告げる時計だった。今その時計は半ばを少し越えたところで光っていた。

「わたくし」とアンブロシアーナはわざとらしく言い換えて、「ここのところ疲れやすいのよ。知っているでしょう」と彼女はぐだぐだと机の上に額をつけたまま愚痴をこぼした。

「それは承知しておりますが、医師の話では特に(からだ)に問題はないそうですね」

「そうよ。心の問題なのよね。狭い部屋に閉じこめられて、毎日毎日お勉強。ねぇ、ワルド大司祭、わたくしも課外授業をすべきではないかしら? 時には環境を変えることも、能率を上げるためには必要でしょう?」

 年老いた大司祭は教え子でもある少女神の奔放な振る舞いには、ほとほと手を焼いていた。これ以上、聖堂の外でまで彼女に飛び回られては、いつ心臓麻痺(しんぞうまひ)になるかわからない。(おび)えながら彼は首を振った。

「とんでもありません、少女神様」大司祭はなんとか彼女を説得しようとした。「外は姫様(ひいさま)が出て行くには、危険な場所なのですぞ」

 大司祭を含め、大聖堂で働く者のうち、半数以上がアンブロシアーナを姫様と呼んでいた。しかしそれは、少女神を(なだ)めて言うことを聞かせるときに使う通称だと、彼女は知っていた。

「危険なんかじゃないわ。わたくしとワルド大司祭は変装していくの。ね! とても楽しそうでしょう」

「楽しくありません!」大司祭は大声を出し、すぐにゴホゴホと(むせ)た。苦しげに胸を擦りながら、彼は白くなった眉毛の両端をむんっと上げた。「いいですか、姫様。外には姫様の及びもつかないような恐ろしい心を持った人間がたくさんいるのですよ! 信仰の薄い人間の中には、姫様が誰か知らなくても、若くて綺麗な女の子だというだけで、危害を加えようとする者もいるのです。もちろん、姫様の正体がバレたりしたら、大事ですぞ! 悪しき非国教徒(ディセンター)は姫様を殺そうとするかもしれません!!」

 アンブロシアーナはワルド大司祭の吐き出す(つば)から逃れるため、突っ伏していた躰を起こして、出来得る限り身を反らした。そして彼の言うことの半分ほどは誇張されていると思った。

「非国教徒がわたくしに何をすると言うのです!」彼女はおもしろくないといった風に顔をしかめた。「(しゅ)を敬まわない者達が、主の妻に何ができるかしら? きっと何もできないわ。そうでしょう、ワルド大司祭」

 大司祭は広くなった額に浮き出た汗を、淡黄色の長衣(ローブ)の手口の裾から手巾(ハンカチ)を出して拭いた。

「そ、それは、もちろん・・・・・・少女神様に彼らが(かな)うはずもありませんが」

 大司祭が慌ててそう言い返すと、アンブロシアーナは笑った。

「でしょう。それに、ワルド大司祭、彼らが少女神に(あだ)なしたことが一度でもあったと思う? 非国教徒は恐れるものではないわ。あたしにとっても、もちろんあなたにとってもよ」

 ワルド大司祭の小さな眸が興味深く開かれた。アンブロシアーナは続けた。

「だって彼らは、まだ主の御心(みこころ)を知らない、無知な赤子に過ぎないんだもの。あたしが外の世界を恐れる理由など、一体どこにあるって言うの?」

 彼女の見事な論法に、一旦は煙に巻かれそうになった大司祭だったが、すぐに彼は我に返った。そしてアンブロシアーナに前例のない課外授業など、自分が(ゆる)しても、他の大司祭や、何よりも聖黎人(せいれいじん)であるユールカ様が赦さないだろうと、きつくダメ押しした。

「お爺様の名前を出すのは卑怯だわ」

 聖黎人ユールカのことを、アンブロシアーナは祖父のように慕っていた。ユールカはここのところ、腰を(わずら)い、寝たり起きたりの気が気でない様子だったので、余計に彼女は彼を落胆させることはしたくなかった。

 聖黎人とは、バスカニオン教で少女神の次に主に近い存在とされている人間を指す。聖黎人は大司祭の中から選ばれ、少女神が代替わりするごとに入れ替わる。今の聖黎人も、アンブロシアーナが少女神になったときに、聖黎人に選ばれたのだった。

 聖黎人ユールカは、教団を二分する穏健派と強硬派の中でも、穏健派に属しており、彼は教団の力が強くなりすぎたことに、懸念を抱いている一人だった。ユールカに対抗している反対勢力の強硬派は、それとはまったく逆で、彼らはアルケナシュ公国と深い繋がりを持って、バルダ大陸にその力を誇示しようとしていた。

 ユールカの体調が悪くなると、この強硬派が力を強める恐れがあり、それはアンブロシアーナにとっても憂慮すべきことだった。彼女はバスカニオン教がバルダのすべての人々が信奉する教えであることを、もちろん望んでいたが、国と国との(いさか)いに干渉したり、厳しい戒律(かいりつ)で人々を縛ることには反対だった。主の存在が心に宿る良心だとするなら、それは人それぞれの感じ方や重みによって違うはずだからだ。強制によって祈らされる主の存在には、何の意味も感じなかった。

 ワルド大司祭は、少女神が大人しくなったので、また勉強を再開した。アンブロシアーナはもう外へ出たいとは言わなかった。


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