2,3
2
エスタークに着いた兵団は、すでに陽の落ちた街で、一番上等の旅亭に王子と騎士三人、それに近衛隊長のフツを、そして古びた街外れの安宿に残りの兵達を分けて、休息を取ることにした。
ジグリットはそれまでエスタークに、これほど立派な旅亭があることを知らなかった。街の中央を南北に走る絞首大通りから東側、貴族やそれに類するような裕福な人々の居住地域にあるその旅亭『銀の蝋燭』は、着飾った若い夫人が切り盛りする、あまり繁盛しているとは言い難い宿だったが、その設備や調度品は眸を瞠るものがあった。王宮ほどではないにしろ、宿の外にある厩はニ十頭は馬を入れることができ、世話をする少年が三人もいた。彼らが一泊するのに、莫大な金銭を受け取るのだろう夫人は、ジグリットが身分を隠していても、騎士と近衛隊の隊長と聞いて上機嫌だった。
遅い夕食だというのに、夫人は宿の料理人を総動員して、それは豪勢な食事を用意してくれた。茹でた鶏と香草の冷菜から始まって、挽肉を包んだパスタ。目箒漬けの根菜類。濃厚なソースで絡めてある豚肉の切り身を牛酪で焼いたものまで、食卓には多種多様な料理が並べられた。騎士達とフツは、疲れを癒すためだと言いながら、葡萄酒の瓶を次々に開けていった。しかしジグリットは、それに一切手をつけず、皿に盛られた食べ物だけを、上の空で口に入れた。元々ジューヌ王子は、食欲旺盛という性格でもなかったので、彼が食事を残しても誰も文句は言わなかった。
ジグリットは早く仲間を捜しに行きたくて、歯がゆい気分だった。エスタークに着いても、彼はなかなか一人になれなかった。ようやくジグリットが一人きりになったのは、夜も更け、日付が変わってからだった。
ジグリットは与えられた二階の一室で、天蓋付きの寝台に転がっていた。耳を澄ましても聞こえてくるのは、室内を明るくしている松明のパチパチと爆ぜる音だけになっていた。
ジグリットは立ち上がり、椅子にかけた軽量の鎖帷子を一旦は手に取ったものの、エスタークで自分に危害が及ぶことはないと判断して、絹の上衣の上に防寒用に厚手の外衣を羽織った。それは灰色の色褪せた外衣で、兵士と同じものだったので、街中でもそう目立つことはないだろうと思えた。
外衣の頭巾を被り、長靴を履かずに手に持つと、ジグリットはそっと足音を忍ばせて部屋を出て、子鼠のように素早く階段を駆け下りた。何の音も立てずに、幽霊が街へ彷徨い出るような静けさで、彼は絞首大通りまで走った。誰にも会うことはなかった。騎士も近衛隊長のフツも、それに宿の雇われ人も、みんな寝静まっていた。特に騎士達とフツは、三日分の疲れと葡萄酒の作用で深い眠りについている。
エスタークの西広場は、日付が変わったというのに、まだ明々と街灯が点いていた。円状に建ち並んだ酒場には、たくさんの客が出入りしている。ジグリットは頭巾を深く被り直し、そこを足早に立ち去ろうとした。客引きをする女の声を避け、昔のあばら屋へ向かおうとするジグリットの後ろを一人の男が通り過ぎる。一瞬、振り返ったジグリットの眸は男の黒衣を映し、すぐに頭巾を両手でぐいと引っ張った。
それは見たことのある顔だった。寝入っているはずの近衛隊の隊員だ。しかしジグリットには、彼が深夜にこんな場所にいる理由を深く詮索する必要もなかった。ここは夜の街であり、酒呑みと女が屯する場所。女っ気のない砦へ行く前に、一晩楽しもうと繰り出してもおかしくはない。
案の定、その隊員は広場の噴水の前で立っていた遊女に近づいて行く。ジグリットは目当ての路地の陰へと躰を滑りこませ、その場を後にした。
噴水の前では、近衛隊の隊員である男が、持っていた小指ほどの小さな筒を女に手渡していた。
「これを明朝、陛下の許へ飛ばしてくれ」
受け取った黒髪の女は、隊員の手紙の内容を知っているかのように微笑した。
「うまくいきそうなの?」
男も薄く笑った。
「ああ、これでタザリアを弱体化できれば、おれも砂漠で一旗上げられる」
「もう充分、タザリアで一目置かれる近衛隊の隊員のくせに」
ふふふっと女が筒を広く開いた上衣の胸の谷間に隠すと、隊員はその肩を抱きながら歩き出した。
「まだまだだ。もっと上にいってやる。おれはここで終わる男じゃないんだ」
二人が小路に消える頃、ジグリットも似たような、別の路地を走り抜けていた。
多分、あばら屋に行っても、あるのは朽ち果てた瓦礫の山と燃え残りの木切れぐらいだろうと見当がついたからだ。他に当てがある場所は、一つしか思い浮かばなかった。
3
剥げかけた黒い塗装の戸を叩くと、一人の白塗りの女が出てきた。ジグリットは、遊里にある一軒の店を訪ねていた。そこは何年も前に、ナターシという褐色の髪と肌をした幼い少女が、下働きをしていた店だった。
店の裏口でジグリットがその事を訊ねると、首筋まで真っ白にした女は、奥にいる女主人を呼んだ。彼女は雇用主が来る前に言った。
「あんた、運が悪いね。今日の女主人は客が少なくてピリピリしてんのさ」
ジグリットは女から香る甘い粉末に、咽そうになったが我慢した。
「だったらもっと機嫌が悪くなるかもしれないな」とジグリットは彼女に言った。
この時間帯の妓楼は本来なら書入れ時で、もっとも忙しいのだ。そんな時間にこの店が忙しくないのなら、確かに女主人の機嫌は悪いに違いない。しかし今を逃せば、二度と機会がないジグリットにとって、女主人の機嫌など知ったことではなかった。
激しい足音がして、すぐに「こんな所で怠けてんじゃないよ!」と戸の奥で女性の声がした。白粉臭い女は肩を竦めてその場を立ち去った。
戸がさらに広く開かれ、さっきの女よりさらに白い中年の女性が姿を見せた。
「何だい、あんた。子供が来るような所じゃないよ、さっさと帰りな」
女主人の着ている亜麻織の布は薄く、足先から太腿のかなり際どい部分まで、すっかり透けて見えていた。見ないように眸を上げても、白い上衣の胸元ははだけて羽織っているだけのようだった。その白い胸の谷間を一筋の汗が流れた。
ジグリットはどぎまぎしながら、何度も眸を瞬かせて言った。
「こんな時間に来てしまって、すみません」
ジグリットが礼儀として謝ると、女はものの見事に吐き捨てた。
「ああ、そうだよ。こんな時間だってのに、何の用だい?」
ジグリットが以前働いていたナターシのことを訊ねると、女主人は「ああ」と口を開いて、思い出すように宙を見上げた。
「あの子ね」と女主人は言って、ジグリットを見た。「なんだ、あんな子供のくせに、男がいたのかい」
失礼な口を利く彼女にジグリットは眉をしかめた。
「まぁ、可哀相な子だったね。バルメトラが拾ってやんなきゃ死んでたよ」
「バルメトラ?」
「火事で顔が焼けちまったあの子を拾って、母親みたいに看病してさ」
「・・・・・・」
ジグリットには話がまったく見えなかった。だが、ナターシが生きていることだけはわかった。
「彼女はどこにいるんです? ナターシに会いに来たんです」
女主人は値踏みするように、またジグリットをじろじろ見た。
「バルメトラと一緒に出て行っちまったよ。せっかく長い間、うちで面倒見てやったってのにさ。本当に揃って恩知らずなやつらだよ。二人とも、もうここにはいないね」
話は終わったとばかりに、女主人は戸口に入った。
「待ってください! 行ったってどこへ? 二人はどこに行ったんです!?」
「そんなことまで知らないね」
女主人は乱暴に戸を閉め、ジグリットは暗い裏口の隘路に取り残された。
――バルメトラ?
――母親のように?
――それに・・・・・・顔が焼けたって!?
ジグリットは茫然とそこに立って、女主人がまた出てきてくれないかと思ったが、やはりそこはいつまでも暗いままだった。




