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数時間後。今度はジグリットが王に呼ばれ、彼はアイギオン城のクレイトスの居室にいた。
柔らかい赤紫の絨毯の上で、ジグリットは剣戟用に履いていた鉄鋲のついた長靴を脱ぎ、手に持っていた。
クレイトスは履いたままでいいと言ってくれたのだが、ジグリットはその立派な緋毛氈の敷物に穴を開けたくなかった。しかしよく見ると、すでに何人もの騎士が出入りしたせいなのか、絨毯にはところどころ荒れた疵が目立っていた。
「フツだけを厳罰に処したのですか?」
ジグリットの当惑を受けて、クレイトスは黒檀の机に着いたまま頷いた。
「そうだ。グーヴァーはおまえ達がやり合っているのを見て、止めに入っただけだろう。彼には何の非もない」
「それはそうです」
だがそれは近衛隊の騎士団に対する反感を、さらに募らせることになるだろう、とジグリットは思った。それは喜ばしいことではなかった。
「ジリス砦といえば、ゲルシュタインとの国境にある砦ですね。危険な場所なのでは?」
「ああ、武装地域だ。だが、フツは並みの男ではない。やつは騎士ではないが、それに相当する近衛隊の、しかも隊長だ」
「・・・・・・」
ジグリットもそれはわかっていた。いくら自分が剣戟の稽古を重ねているとはいえ、彼の技量とでは天地ほどの差がある。フツはグーヴァーや冬将の騎士と同等に位置する師匠格の手練なのだ。
ジグリットはジリス砦にいる冬将の騎士のことを思った。そして心の片隅で、もう彼に半年も会っていないことを寂しく感じた。ジューヌと共にアプロン峠へ出陣した頃から、ファン・ダルタはジリス砦の任に就かされていた。彼はどうしているだろう、とジグリットは王の背後にある窓の外を見つめた。すでに暮れかけた空の淡い残照は、遠く北西ではまだ昼のように明るかった。
「父上、冬将の騎士はいつ王宮へ帰ってくるのですか?」
クレイトスはふっと軽く微笑した。
「ジリス砦からの報告では、ゲルシュタインもベトゥラもこの紫暁月の間は大人しかった。両国とも内紛を収めるのに手一杯なのだろう。わたしとしては、ファン・ダルタにはこの蛍藍月の交代で戻ってきてもらいたいのだがな」
「では、彼は戻って来るのですね?」
「そうだな、彼を正式にここへ戻すつもりだ。だが、彼が砦から退くのなら、交代要員の騎士をあと三人は追加せねばならんだろうな。ファン・ダルタはひとたび事が起これば、他の騎士の五倍、いや、それ以上の働きをしてくれる男だ」
返答を聞く限り、王はまだ決めかねているようだった。
ジグリットはジリス砦の場所を頭の中の精巧な地図と照らし合わせ、タザリアにとってそれがどんなに重要な地点に位置するのかを考えた。王の言う通り、ファン・ダルタがジリス砦に駐留していることは、他国にとっての脅威となるだろう。だが、それ以上に彼の放つ斬撃の重く鋭い一太刀や、共に曠野を馬で駆けたことを思い出すと、会いたさが募った。
それと同時に、ジグリットはジリス砦の場所にちょっとした引っかかりを覚えていた。ジリス砦の周りには食糧の補給を受けたり、休みを取れる場所はない。
――だったら、ジリス砦への道行きでエスタークに寄ることもあるんじゃないだろうか。
それはふと思い至ったことだったが、ジグリットの胸は締め付けられた。
――エスターク・・・・・・。
かつての仲間の顔が、古いあばら小屋が脳裏に浮かんで消えた。次の瞬間、それは燃え尽きた無残な姿でジグリットの心を刺した。
――みんな死んでしまった。でも一人だけ、まだ生きているはずだ。
三年も前の出来事だったが、ジグリットにはまだエスタークで仲間を捜したことは昨日の事のようにはっきりと思い出せた。
見つけられなかったそのたった一人の事を思うと、ジグリットは今でも辛く悲しかった。その子がどうしているのかを考えると、最悪な事を想像してしまうからだ。
――孤児であり、あのような惨めな生活を送っていたとしても、それはまだ仲間がいたから耐えられた。もし一人きりにされたら・・・・・・。
ジグリットには生きていく自信さえ感じられなかった。貧民窟の孤児に誰が手を差し伸べてくれるだろう。そんな奇特な人物は、誰一人いはしない。
「父上」ジグリットは思い詰めたような声で言った。
クレイトスは別のことを考えていた頭を上げ、息子を見やり、そして顔をしかめた。王子は今にも泣き出しそうな表情で立っていた。
「どうしたんだ、ジューヌ?」
ジグリットは鼻を啜り、強い口調で言った。
「父上、どうかぼくをフツと共にジリス砦へ派遣してください」
「なんだとっ!?」突然の申し出にもちろん、クレイトスは眸を大きくした。
「ぼくは共に罰を受けようと思います。彼だけが処罰されるのは、公平とは言えないでしょう」
ジグリットは黒檀の机に近寄り、王の呆気に取られた顔の前で、懸命に考えながら口にした。
「フツがぼくに疑惑を持ったことは、ぼくのこれまでの生活態度と今の態度の違いが、あまりにも大きかったからだと思います。確かに今まで、ぼくは投げやりだった。その上、フツとぼくはまともに話したこともないんですよ。つまり、フツはぼくをまったく知らないということです。これを機に彼にぼくを理解してもらいたいのです。ぼくはもっとたくさんの人に王子の存在とその意義を知ってもらいたい。そのためにチョザを離れることも、必要とあらば厭いません」
「そんなことは赦さん!」クレイトスは立ち上がった。
「ですが、父上。フツだけが処分されたことを近衛兵達が聞けば、彼らはぼくではなく、騎士団に敵意を向けるでしょう。ぼくが処分されたことを知れば、彼らはまた別の角度から物事を捉えることになります。つまり、この問題がフツとぼくの問題であったと考えるでしょう」
クレイトスは眉を寄せ、恐ろしげな顔のまま、また椅子にかけた。「ジリス砦は危険な場所だ」彼はそう言うことで、王子が撤回するとでも思っているかのようだった。
しかしジグリットは、ただ頷いただけだった。
「わかっています、父上。それでもぼくは、フツと行きたいのです。ぼくはタザリアの王子ですが、国内の事を何も知らないのではないでしょうか? ぼくの知っている事といえば、王宮から近い森にいる野兎や鹿、アプロン峠への険しい道程。それだけです。それでぼくが本当にタザリアを理解していると言えるでしょうか? タザリアの民を理解できると?」
クレイトスは口元に指を当て、じっとジグリットを見つめた。彼自身も、かつては王子だった。そして同じことを思っていた時期もあった。しかし彼に与えられたのは、眸にすることのできる曠野でもなければ、村や街でもなかった。大きな一枚の地図だけだった。クレイトスが自由にチョザを離れることができるようになったのは、彼が王の座についてから。そしてそれは、思うよりもずっと長い軟禁生活を彼に強いた。
「おまえは幾つになった?」クレイトスは訊ねた。
「・・・・・・ぼくは、十四です」ジグリットはジューヌの年齢を答えた。
「十四か」と王は口の中で呟き、そして大きな溜め息をついた。
クレイトスにとっても、これは大きな賭けになるだろうことはわかっていた。もしジリス砦で王子が暗殺でもされれば、もう我が子はリネアしかいない。王女が王位を継ぐことは、稀にではあったが、他国で行われていた。本当なら行かせたくはない。だが、ジューヌはこの機を逃せば、自分と同じように長く王宮から離れることはないだろう。そう思えば赦しを口にすることも、難しいことではあったが、彼にはできた。
「いいだろう」クレイトスは消え入りそうな声で言った。「おまえがジリス砦の視察へ赴くことを許可しよう」
ジグリットは湧き立つような喜びを噛み締めながら、表面では落ち着き払って一礼した。
「ありがとうございます、父上」
王はジグリットに悲しげな笑みを向けた。
「おまえがしっかりしてきて、わたしは本当に安堵しているよ」
それは本心だったが、クレイトスはなぜかとても辛かった。胸の重い痛みをなんとか微笑に変えて、彼はジグリットを廊下へ送り出した。王子の足音が遠ざかって行くのを聞きながら、クレイトスは机に両肘をついたまま、うな垂れた。王は孤独だった。この苦しみを誰にも打ち明けられなかった。マウー城にいる王妃は、この出来事に無関心だろう。そして彼の信頼する騎士の一人、グーヴァーにも個人的なことは話せなかった。
「わたしが間違っていたのだろうか」
クレイトスは独りきりの広い部屋を見上げた。驕奢とはほど遠い殺風景な室内は、いまはただ静寂に包まれていた。




