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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
62/287

          5


 ジグリットは南側のアンバー湖に接した巡視路の胸壁の狭間に腰かけていた。そこはちょうど腰かけるのに適した高さで、しかもアイギオン城の謁見室がよく見えた。

 アンバー湖は午後の陽射しを浴びて、翠玉(エメラルド)のごとくきらきらと湖面を輝やかせていたが、ジグリットはそれに背を向けたまま、じっとアイギオン城の二階の窓を見つめていた。巡視路には一人の衛兵がいて、彼はジグリットの後ろを何度か行きつ戻りつしていたが、いまアイギオン城で何が話し合われているのか、知らないようだった。

 ジグリットの所から、王はおろか、グーヴァーもフツも、それに他の誰の姿も見えなかった。それもそのはずで、謁見室の窓は左端の二つしか開け放たれていなかった。ジグリットには、廊下に通じる両開きの大きな扉が、かっちりと閉まっているのが見えるだけだった。

 長い間、彼はそこに腰かけていた。リネアが()めていた彼らの所へやって来て、謁見室に行き王の裁定に(ゆだ)ねることを命じた後、全員が連れ立ってアイギオン城へ向かった。もちろんジグリットもだ。自分のことでこれほどの大事になってしまっては、さすがのジグリットも足が(すく)む思いだったが、仕方がなかった。

 ところが、城で事態の概要を聞くなり、王はジグリットとリネアに退出するよう言い渡し、扉を閉めてしまったのだ。

 ――自分のことなのに追い出されるとは思わなかったな。

 王がどういう意図でそうしたのかはわからないが、廊下で待つよりも、少しでも中の様子を知りたくて、ジグリットはリネアにこの場所を教えてもらってやって来たのだった。

 そのリネアはというと、彼女は退出させられても特に気にもしていない様子で、さっさとソレシ城へ戻ってしまった。彼女に助けられた形になり、ジグリットは複雑だった。最近のリネアは、本当にジグリットを(ジューヌ)だと思っているのか、難癖をつけることも手酷い虐めをすることもなく、大人しいものだった。時に助言をくれたり、優しかったりもするので、ジグリットは自分が王子と思われているとはいえ、気味が悪かった。

 彼らがアイギオン城へ入ってから、一時間近く経った頃。石造りの胸壁に座って、ジグリットが両足をぶらぶらと揺らしながら城を眺めていると、謁見室に動きがあった。誰かが扉を開けたのだ。

 ジグリットは左端の窓の奥に眸を()らして、誰が入って来ようとしているのか見定めようとした。両開きの扉から灰色の長衣(ローブ)姿の男が現れ、ジグリットは一瞬、人違いかと思った。しかし男のぴんと伸びた背筋が、否応(いやおう)無しによく見知った人物だと告げていた。

 ――マネスラーが、なぜ王の許に現れたんだ?

 ジグリットは、なんとか謁見室の奥まで見えないものかと躰を傾けてみたが、どうにも無理だった。その教師は丁寧に扉を閉めると、窓枠から外れてしまった。

 今、話し合われている問題の、どこにマネスラーが必要なのか、ジグリットにはわからなかった。

 ――彼は誰かに呼ばれたのだろうか? だとしたら、一体何のために?

 ジグリットはマネスラーが呼ばれた理由をいろいろと考えてみたが、それは余計に中の様子を把握できず、気を揉ませるだけだった。



 マネスラーは謁見室の奥にいる王と、その前に(ひざまず)いている二人の男、そしてその背後に並ぶさらに五人の男を陰気な面持ちで見つめていた。ジグリットが疑問に思うように、マネスラー自身もなぜ自分がこのような場に呼ばれたのかわかっていなかった。

 ただ王が至急、アイギオン城に来るようにと兵を寄越したので、書斎で書き物をしていた彼は仕方なく参上しただけだった。

 玉座に腰かけたクレイトスは、マネスラーを温かく迎えた。

「手数をかけて済まないな、マネスラー」

 マネスラーは仏頂面を崩さなかったが、言動は丁重だった。

「いいえ、陛下。ちょうど一息入れようと思っていたところです」そして五人の兵の後ろに立ち止まり言った。「わたしをこの場にお呼びした理由を(うかが)いたいですね」

 その場にいるクレイトス以外の全員がそう思っていた。

 マネスラーは跪いた兵士達を見下ろした。騎士長のグーヴァーに、近衛隊長のフツまで並んでいた。彼は同じように跪くことはせず、長衣(ローブ)の横に腕を垂らしたまま立っていた。クレイトスとの間に障害物はなく、マネスラーは真正面から王の眸を見ることができた。

 赤茶けた(さび)色の眸が、マネスラーに注がれ、彼は王は王子と同じ眸をしていると思った。理知的で温厚な眸。それは親子であれば当然で、疑う余地もないことだったが、マネスラーには意外だった。今のジューヌ王子とタザリア王は、顔だけ見れば若いか年老いているかの差でしかなかったからだ。

 そんなマネスラーに気付かず、クレイトスは命じた。

「最近のジューヌの様子を話してくれ」

 さらに突拍子もないことを言われ、マネスラーは困惑した。

「今・・・ここでですか?」辺りを見回し、彼は怪訝な顔をした。

「ああ、そうだ。()(ほう)忌憚(きたん)ない意見を述べてくれ」

「・・・・・・はい、陛下」

 マネスラーはここで今まで何が話し合われていたのか、全く見当がつかなかったが、とりあえず言わねばならないことがあったと思い出した。

「ジューヌ様は、ここの所、確かに真面目になられました」

「ふむ」クレイトスは相槌(あいづち)を打つように頷いた。

「ですが、それは多少のことでして」

「というと?」

「実際、ジューヌ様の勉強に関しては、わたしはほとほと手を焼いている次第でございます。まず、数式を覚えていただけないばかりか、昨日お教えしたはずの式も、翌朝にはすっかり抜け落ちている有様です」マネスラーは抑えこんでいた鬱屈をばら撒くかのごとく言った。「さらに、地理ですが・・・・・・タザリアがバルダ大陸のどこに位置するのかはもちろん、お教えしましたが、いまだに距離感がまったく掴めていないご様子で、フランチェサイズまで馬でどれだけの日数がかかるのか、計算もしょっちゅう間違われます」

「・・・・・・」クレイトスは言葉もなかった。息子がそこまで愚かだとは思っていなかったのだ。

 しかしマネスラーは容赦なく続けた。

「それから帝王学ですが、王たる者となるために、必要な人間心理や道徳といった話をするといつも退屈そうに欠伸(あくび)をされ、機嫌の悪いときなどは、寝室で別の本を読んでいらっしゃいます。いわゆる、授業放棄(ボイコット)です」

「・・・・・・」

 落胆の表情を隠し切れないクレイトスに、マネスラーはとどめを刺した。

「学問とは、それこそ修練により身に付くもの。なのに王子ときたら、課題を出しても、翌朝まったく手付かずで、理由をお訊ねしたら『ぼく眠くなっちゃった』ですよ、陛下!」

 段々、熱が篭もってきたマネスラーにクレイトスは気圧(けお)されつつも、話を別の方向へ持っていこうとした。そうしないと、耳が痛いどころか、クレイトスは気分が悪くなりそうだった。

「それでマネスラー、ジューヌとかつての生徒の一人だったジグリットを比較してみて、どう思う?」

 マネスラーは顔を強張らせた。その名前が唐突に現れたことに、彼は不快感を顕わにした。ジグリットの名前は、今のマネスラーにとって、()まわしいものだった。

 マネスラーは渋面を呈しながら言った。

「ジグリットですか・・・・・・?」

 嫌そうに呟いたマネスラーに、クレイトスは深く頷いた。

「そうだ。覚えているだろう」

「もちろんですが、陛下。なぜそのようなことを申されるのです? ジューヌ王子と彼を比較するなど、王子にとって失礼だと思いますが」

「失礼でもいいのだ。赦す。述べてみよ」

「・・・・・・ジグリットは」マネスラーは険悪な表情のまま、視線を床に落とした。「ジグリットは、彼は別格でした」

 跪いていたグーヴァーが振り返った。グーヴァーにはマネスラーの表情が影になってよく見えなかったが、彼が言うことが自分にとって、そして亡きジグリットにとって、喜ばしいことに違いないと確信した。なぜなら「ジグリットは別格だ」その一言を彼も心底、理解していたからだ。

 マネスラーは言うべきことかどうか、思案していた。王の前でジグリットを褒めるのはどうかと思ったからだ。それに王子を(けな)したばかりだ。しかし彼は正直に答えた。教えたかったのだ。あの少年が・・・・・・そうであったことを。

「彼には天賦(てんぷ)の才がありました」

 クレイトスは眸を(すが)めた。マネスラーは床を、いや、どこか別のものを見ていた。彼は悔しそうに言った。

「天賦の才とは、修練や学問で身につくものではありません。知性が生まれたときから備わるように、それは生まれ持った素質なのです。ジグリットは、わたしが一つ教えればそこから十を学び、百知ればたった一つの根幹を導くことができました。彼は・・・・・・わたしが教えたすべての生徒の中で唯一才知に優れた者でした」

 暗に王子との比較を避けた答えだったが、それはクレイトスにとって、あまりにも残酷だった。もちろん、フツにとっても。グーヴァーだけが、マネスラーの言い分にかすかに微笑した。グーヴァーはその場でただ一人、満足感と優越感を味わっていた。

 クレイトスは最後の一撃を、自ら訊ねるしかなかった。

「マネスラー、今のジューヌがジグリットだと思えるか?」

 マネスラーはもう動揺しなかった。彼は自分が言った言葉で、充分なほど悟っていた。あれはジグリットではなく、ジューヌなのだと。だから彼はきっぱり答えた。

「いいえ、陛下。まったくの別人です」そして付け加えるのを忘れなかった。「しかし王子には、もう少しがんばっていただかないと、さすがのわたしもこのままでは将来が不安です」

 クレイトスは溜め息をつきながら、玉座に背を(もた)せかけた。

「わかった、わかった。あの子をしばらく椅子に縛り付ける許可をくれてやる」

 マネスラーは不気味に一笑した。

「では早速、そのように致しましょう」

 彼は王への挨拶もそこそこに、飛ぶように謁見室を出て行った。その足取りには、呼び出されたときとは裏腹に、明らかな喜悦が混じっていた。ソレシ城の書斎へ早足に向かいながら、そう言えば・・・・・・とマネスラーは自問した。なぜわたしは呼ばれたのだろう、と。しかしそれはもうどうでもよかった。明日から王子を椅子に縛りつけて、骨の髄まで勉学に浸らせられるのだから。



 マネスラーが退出した謁見室に、再び重い空気が立ち込めていた。クレイトスはそこにいる全員に眸を向けた。同じように、全員が王を注視していた。クレイトスの力のある眼差しは、公明正大に物事を捉えているかのようだった。フツでさえ、王が間違ったことを言うはずがないと信じていた。そしてその近衛隊長は、だからこそ彼に忠誠を誓っていた。クレイトスにはそれだけの畏敬(いけい)の念を抱かせる威光があった。

「わたしの(さば)きはすでに決まっている」クレイトスは貫禄(かんろく)のある声で言った。

 跪いた騎士と近衛兵はみな、頭を垂れた。

「おまえ達の言う、わたしの息子ジューヌに対するいかなる疑念も、わたしは赦さん」当然の如くクレイトスが言うと、フツは顔を上げ、反論しようとした。しかしクレイトスは間髪入れずに続けた。

「わたしの息子ジューヌが」王はそれを強調するかのように、一際(ひときわ)声高に告げた。「すでに主に召された少年と間違われるなど、このタザリアの一族、ひいては黒き炎の血族に対する侮蔑であり、(いや)しめに他ならない」

「そうではありません、陛下!」フツは身命を()する覚悟で立ち上がった。王の言動に割って入るなど、彼の望みではなかった。しかし王が言ったことは完全に間違いだと気付いて欲しかった。蔑視したのは王族ではないのだと、彼は言いたかった。

 クレイトスは口を閉じ、フツをまっすぐに見た。

「其の方のしたことは、あまりにも軽挙だ」

 王の冷たい言い回しは、フツを愕然とさせた。彼は力無く、崩れるように床に跪いた。冷たく硬い御影石(みかげいし)が体温を吸い取り、彼は身震いした。

「自らの眸が常に正しいと思っているのだろう。しかし、それは違うぞ、フツ」

 フツは肩を落としたまま、王の言葉が終わるのを待っていた。もはや王には、自分の声が届かないのだ。彼はそう思った。誰よりもタザリアに忠誠を重んじる自分が、莫迦にされていることに不条理な腹立ちを覚えていた。

 クレイトスは玉座から離れ、フツの前まで歩いて来た。そしてうな垂れている近衛隊の隊長の前で静かに膝を折り言った。

「其の方の慧眼(けいがん)には、わたしも一目置くところだが、あれは・・・」

 フツはゆっくり顔を上げた。

「あれは確かにわたしの息子なのだ」

 錆色の眸が射抜くように真摯に自分を見つめていた。フツはぐっと唇を噛み、そのあまりにも純然な視線に言葉を呑んだ。

「王としてではなく、父親として断言しよう。あの子はわたしの息子のジューヌだ。父親が息子を見誤ったりするはずがないだろう。その上、ジューヌに近しい二人の者が、あれをジューヌと呼ぶのなら、最早(もはや)おまえに異を挟む余地はない。それに、おまえが言うジグリットに、あの子が似ているというなら、それはわたしの望むところだ。わたしはあの子に彼のように強く、彼のように賢智であって欲しいと常に願ってきた。そして今、ジューヌ自身もそれを望んでいるのだ。あの子が頑健であれば、それは我がタザリアの未来永劫の繁栄へと繋がる。違うか、フツ」

「・・・・・・陛下がそう仰るなら、わたしに何の不服がありましょう」

 フツは理解するというより、屈したといった態度だったが、クレイトスは立ち上がり、玉座へ戻った。

「裁きを下そう」王は告げた。「近衛隊隊長のフツ・エバンには、蛍藍月(けいらんづき)初旬に行われるジリス(とりで)の交代式の警護を命じる」

 騎士と近衛兵達がざわめいた。ジリス砦は北西にあるゲルシュタインとの国境沿いの武装地帯で、いつ襲撃されるかわからない危険な場所だった。現在、そこには去年の白帝月(はくていづき)から騎士団の騎士五名と、冬将の騎士ファン・ダルタ、それにタザリア兵およそ百余名が駐留していた。

「近衛隊である貴君は、王宮を警護するのが本来の任務だが、わたしはあえて、チョザを出て、しばらく外の空気を吸ってくることを勧めよう。ジリス砦に交代要員を送り届け、無事に任務を終えた兵士を連れ戻れ」

 フツは眸をぎらつかせて深く一礼した。

「承知しました、陛下」

 彼は任務に忠実な男だった。それがたとえ厳刑だとしても――。


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