3ー2
――殺されるッ!!
ジグリットは咄嗟に握っていた剣の柄で短剣をはねのけようとした。手が斬られるかもしれないが、構っている場合ではなかった。ヤツは本気だ。本気で殺すつもりで、喉を狙っているのだ。
その直後、なぜかフツは後ろに下がった。ジグリットは上げた腕をそのままに、フツの妙な行動に自らも摺り足で後ずさると間合いを取った。すると、クククッとフツの喉から音が漏れた。彼は可笑しそうに笑い出した。
ジグリットは腕を下ろし、忌まわしい男に対し眉をしかめた。まったく彼の行動は解せなかった。どう見ても本気で斬りかかってきたくせに、今はその態度が嘘だったのかのように、目尻を下げて、げらげら笑っているのだ。
「まだ勝負はついていないぞ」ジグリットは歯噛みしながら言った。
これ以上やり合っても意味がないことはわかっていた。この数分でフツがグーヴァーやファン・ダルタに匹敵する剣の使い手だということは理解できた。この男はやはり強いのだ。それもそのはずで、彼は炎帝騎士団と並ぶこの王宮の近衛隊の兵であり、しかもその隊長なのだ。大きな躰をいとも容易く、自由自在に動かすことができる上に、短剣の長所をしっかりと理解している。グーヴァーを莫迦にしていたが、ジグリットにも素早さだけ見れば、騎士長よりフツの方が上であることは認めざるを得なかった。
――彼の腕は師匠格だ。
最初から負けるつもりだったとはいえ、途中から本当に自分がジューヌとして戦っていたのか、ジグリットにはわからなかった。本領を発揮しても彼には勝てなかっただろう。それを認めるのが悔しかった。
フツは短剣を鞘に入れ、ジグリットにも仕舞えと促した。不本意ながら、剣を仕舞っていると、グーヴァーと二人の騎士、それに数人の近衛隊員が走り寄ってきた。
「一体、何をしているんです!」最初にグーヴァーが大声で言った。「フツ、近衛隊の隊長ともあろう方が、王子に何を!」
フツは笑うのを止めたが、それでも眸はまだかすかな笑いを押し隠していた。
ジグリットはフツが先に挑発してきたとはいえ、こうなることを予期しなかった自分に苛立った。中庭で稽古でもないのに、近衛隊の隊長と王子が打ち合っていたら、それこそ城壁から丸見えだ。巡視路を警護していた衛兵が見つけて、グーヴァーに告げたのだろう。
「王子、お怪我はありませんでしたか?」
グーヴァーと二人の騎士がジグリットを取り囲み、三人はジグリットの躰を隅々まで見回した。
「大丈夫。どこも怪我してないよ」ジグリットはそう言うのがやっとだった。
自分のしたことが愚かだったと、彼はようやく気付いた。しかしすでに遅かった。ジグリットが思った以上に、それは問題を起こす火種になっていた。
「フツ、なんとか言ったらどうなんだ!」
グーヴァーの険しい表情に、フツ以外の近衛隊の隊員は彼を囲んで青褪めている。
「隊長、なんでこんな事したんですか!?」
「そうですよ、幾ら何でもこれはマズいですよ!」
しかし当の本人はしれっと、さも当然だと言うように、ジグリットを指差した。
「だってそいつ、王子じゃないだろうが」
一瞬、全員が時が止まったかのように、固まった。
ジグリット自身も、言われたことに眸を見開き、それから頭の中で繰り返した。
――王子じゃない。
――ぼくが王子じゃない・・・・・・だって!?
フツはジグリットに据えていた指を、今度は全員に順に回した。
「おまえらこそ、どうかしちまったんじゃねぇのか? 王子王子って、コイツはジグリットだろう」
よく見ろとばかりにフツは近づいてくると、騎士二人に挟まれたジグリットの頭を鷲掴んだ。
「何をする、無礼者が!」グーヴァーが慌てて、フツの腕を引き剥がし、ジグリットの顔を見下ろした。「大丈夫ですか、王子!?」
しかしそう言ったまま、自分を凝視する騎士長の太い喉が、ごくりと上下に動くのをジグリットは見た。他の騎士と三人の近衛隊員も、茫然と突っ立ったまま黙っている。急に静まり返った場に、ジグリットは瞬きも忘れて、彼らが何か口にするのを待った。
胸の鼓動が激しく打ち始め、やがて恐ろしい速度で鳴り出すと、ジグリットは息苦しくて堪らなくなった。
――バレた!? まさか、みんなにもジグリットだとバレたのか!?
しかしジグリットの怯えた表情とは裏腹に、騎士達どころか、近衛隊員までもが噴き出した。彼らは最初押し殺したように口を塞いでいたが、やがて爆発したように大声で笑い出し、終いには躰を折って苦しげにヒイヒイと泣き崩れた。
「ちょっと、ちょっと・・・・・・幾ら何でもそれはなぁ」
「そうですよ、近衛隊の隊長がこんな冗談言う人だったとは」
二人の騎士が腹を抱えながら言うと、近衛隊の隊員が後を追うように涙を拭いた。
「いやぁ、隊長。さすがにその冗談は笑えないっすよ」
「っておまえ笑ってるだろ」
「それもそうか」
隊員達はまだ幾らでも笑いがこみ上げてくるらしく、その場で躰を揺らしている。
笑っていないのはジグリットとフツ、そしてグーヴァーだけだった。
ジグリットはグーヴァーと黙って見つめ合っていた。彼が何を考えているのかわからず、ジグリットはふざけてごまかすべきなのか、それとも怒ってみせるべきなのか、どちらとも取れずに立ち尽くしていた。すると、グーヴァーが口を開いた。
「これは由々しき問題だぞ、フツ」騎士長の声は一瞬にしてその場を凍りつかせた。
笑い声が止み、緊張した空気が張り詰めた。
「冗談では済まされん。王子を他の者と見紛うなど、あってはならんことだ!」
騎士と近衛隊員は、事態を把握したのか、顔色を変えた。
フツだけは最初と変わらなかった。彼はグーヴァーの怒り心頭といった顔から眸を逸らして西のマウー城の方を何気なく見ていた。恐れも怒りも、まして悪びれたところもなかった。ジグリットが見る限り、フツは自然体だった。彼は下衣の衣嚢から巻煙草を取り出し口に咥えた。そして鼻歌でも歌うように言った。
「いやな、おれも冗談だといいなぁとは思ったんだぜ。でも残念ながら、そいつは違う。王子じゃない」
「まだ言うか!」
「だァから、言ってるだろう。おれも言いたくて言ってるわけじゃないんだよ。遠くから見たときは、あれ? どっちだ? って感じだったんだけどよ、近くで見たらジグリットだし、それに試してみたら・・・・・・」フツはちらっとマウー城からジグリットに視線を移した。「やっぱりジグリットなんだよな」
ジグリットは足が震え、なぜか酷く寒く感じた。指先が凍りついたように痺れ出し、膝がガクガクと揺れていた。
「ジューヌ王子っていやぁ、虚弱・貧弱・軟弱って、三拍子揃った王子様だぜ?」フツは指折り数えてジューヌを罵倒した。「それが見ろよ、この王子様を。おれの挑発に乗って、剣を振り回すなんざ、以前の王子とは比べ物にならねぇだろう」
近衛隊の隊員達が小声で「確かに」「最近の王子は・・・・・・」「それはそうかもな」と口々に言い合い始めた。
「それにこの王子様は、おれの一撃を怪我も顧みず、往なそうとしたんだぜ。ジューヌ王子にそんな度胸があるか?」
今度は騎士達が眉を寄せ、ジグリットを横目で窺う。
「何より、おれの直感がビンビンきてんだよ。コイツはジグリットだってな」
ジグリットには何も言えなかった。フツの言っていることは、あまりにも正しかった。ジューヌなら、あの時、フツの挑発には乗らなかっただろう。グーヴァーの悪口を言われたぐらいで、彼はカッとなったりはしない。むしろ、ソレシ城へ逃げ帰るぐらいのことはすべきだったのだ。
フツはジグリットに詰め寄るように一歩進み出た。
「おい、騙り者の王子。弁明しろよ。できるならな」
怯えて震えているジグリットに、誰も手を貸さなかった。騎士も、近衛兵も。彼らのねっとりと絡みつくような疑いの眸に、ジグリットは生きた心地もしなかった。そのとき、グーヴァーがすっとジグリットを彼らの視界から塞いだ。
「おまえの直感など、アテにできるか」騎士長は、ジグリットを背中に覆い隠すように仁王立ちになった。「昨日今日、見かけただけのヤツに何がわかる? この方が王子ではないだと!? 愚弄するのもいい加減にしろ! この方はジューヌ様だ。誰よりもわたしがそれを知っている。ジグリットとジューヌ様、二人の武術指南役であるこの騎士長グーヴァーがな!」
フツとグーヴァーが睨み合うと、騎士と近衛兵は慌ててお互いの守護すべき人物の横に回った。グーヴァーは腕を突き出して、フツを突き飛ばした。
「いいか、この方は確かに、日々ジグリットに近づいている。わたしもそれは否定しない。だがそれは、この方の剣戟の腕が上がってきているからに過ぎない」
フツは肩を竦めて、首を振った。
「違うって言ってんだろう。ちゃんと眸、開いてんのか?」
あまりに人を莫迦にした態度に、脇にいた騎士の一人が叫んだ。
「おい、おまえ! 騎士長より年下のくせに無礼だぞ!」
「誰がおまえだ! おまえこそ、うちの隊長をおまえ呼ばわりするな!」
今度はフツの横にいた近衛兵だ。
こうなると、二手に分かれて喧喧囂囂とやり合うのに時間はかからなかった。騎士と近衛兵はお互いを侮辱し合い、フツとグーヴァーは恐ろしい形相で怒鳴り始めた。
「この方は正真正銘、ジューヌ様だ! 取り消せッ!!」
「イヤだね、コイツはジグリットだ。おれの直感は外れたことねぇんだよ!」
「貴様の直感など、ただのまぐれ当たりだっただけだ。いい加減なことばかりぬかしおって!」
ジグリットはグーヴァーの後ろで、どうしようもなく立ち尽くしていた。彼らを止めることもできなかった。なぜなら、ジグリットの躰の震えはいまだに止まらず、唇は乾ききって動かなかった。自分がジューヌではないとバレたときのことを考えると、あまりに恐ろしかった。ジューヌらしく振る舞っていたつもりだったが、それも今考えるとお粗末な演技でしかなかったのかもしれないと思えた。
――いずれはバレる事だったんだ。
――それが今だというだけだ。
しかしだからといって、自分の人生がここで終わり、騙り者として処刑されると思うと、想像を絶するほどの恐怖に襲われた。動揺が躰を凍らせ、頭が錯乱したように、次々と無用な記憶を引き出した。
――ジューヌが死んだとき・・・・・・こんな莫迦げた事を考えなければよかったんだ。
――でもぼくに何ができた。
――入れ替わること以外に、ぼくに生き延びる術があっただろうか。
取り消したい過ちが次々と浮かんでは消えた。ジグリットはグーヴァーの背後から後ずさった。
――王宮から逃げてしまえばいい。
――そもそも、こんな所に来たのが間違いだったんだ。
――所詮、貧民窟の人間が、王子になれるわけがない。
そのときだった。ジグリットの狼狽した思考に、凛とした女性の声が射し込んだ。
「やめなさい!」彼女は近づきながら、高慢に言い放った。「今ここで剣を抜いた者は、わたしの命で即座に首を刎ねます」
辺りは静まり、ジグリットはリネアの尊大な笑みを眸にした。そして彼女の言った通り、グーヴァーとフツが柄に手をかけているのを見た。二人は互いに剣を抜くところだったのだ。誰も動かなかった。そして誰一人、王女から眸を離さなかった。
「懸命です」彼女は男達から、ジグリット個人に眸を向けた。そしていつものように、軽やかに微笑んだ。「それでジューヌ、これは一体、誰のせいなのかしら?」
ジグリットは混乱する頭で、ジューヌなら・・・・・・ジューヌなら・・・・・・と彼ならどう言うだろうかとしきりに考えた。
「ぼくは悪くないよ」ジグリットはみっともない泣き声を出した。「フツが酷いこと言ったんだ! ぼく何もしていないよ、リネア」
王女は淡紅色の唇の左右をきゅっと持ち上げ、さらに深く微笑した。
「そう」そしてフツを見て、また笑った。「あなた、わたくしの弟に酷いことを言ったの?」
フツの表情に初めて戸惑いが生まれた。フツはそれを振り払うように言った。「いいえ、リネア様。彼はあなたの弟君ではありません。彼はジグリットなのです」
言った途端、フツの横面をリネアが撲り飛ばした。
「おまえ、質問に答えず、わたくしの言動を無視するつもり? 訊かれたことにだけ答えればいいのよ。どうなの? この子に酷いことを言ったの?」
全員が眸を大きくして、王女と隊長を見ていた。
リネアの瞬時に湧き上がった怒りの眼差しを受け、フツの頑健な頬が赤らみ、彼は俯いた。
「・・・・・・言いました、リネア様」
飼い犬が主人に叱られたような萎れた態度で答えた隊長に、リネアは満足したように頷いた。
「そう。だったら、おまえはそれなりの罪に問われるでしょう。お父様が裁定してくださるわ。善も悪もね」
ジグリットはとんでもない事になって、凍りついていたはずの心臓がきりきりと痛むのを感じた。もう何も起こって欲しくなかった。その願いがどれだけ虚しいものか、彼自身が一番よく理解していた。




