4
4
高さ六ヤールはある巨大な鋼鉄製の門はエスタークの北を守る要であり、夜間には大人の腕ほどもある樫の横木が左右の扉を貫いて、何人も街へ踏み込ませないよう衛兵達によって監視されていた。
今その門を背に、ジグリットとテトスは地べたに座らされていた。
「警吏を呼びに行きましたから、すぐに引き取らせますので」
衛兵の一人がそう言うと、六人いた兵士のほぼ全員が眉をひそめてジグリットとテトスを見下ろした。彼らの鋭い眼差しから、ジグリットは自分がどう思われているかを想像して、喚き散らしたい気分になった。蔑まれることには慣れている。疎まれることも、同情されることにも。ただ許せないのは、彼らに何も告げられないことだった。
ジグリットはこの状況を打開する方法を幾らでも思いつくことができた。テトスが彼らの馬に近づいた理由も、なぜ一番立派な馬に近づいたのかも、鞍に触っていたことだって、ジグリットには弁解することができた。どんな嘘でも真実にできたはずだった。声さえ出れば。しかし、今のジグリットには何もできなかった。彼にできたことは、兵士達を睨みつけることだけだった。
テトスが兵士に捕まったとき、ジグリットは帽子屋の影から走り出て、暴れる馬と盗人を捕まえようとする兵士、そして逃げようとするテトスとが混戦している中に割って入った。
テトスは半泣きの顔を一瞬輝かせたが、ジグリットはそれに応えることができなかった。ただ一緒に捕まっただけだ。しかし、とジグリットは冷たい地面に胡座をかいたまま考えていた。
――警吏を呼ぶなら、状況はそれほど悪くない。
ジグリットはこのまま二人とも、兵士たちの刀の錆にされるかもしれないと思っていた。それも当然で、兵士は警吏よりも高位であり、彼らが下級兵だとしても自らの手で少年二人を裁きたいと願えば、そうできたからだ。そして、その裁定は確実に死を意味した。
だから衛兵が警吏を呼ぶことを提案し、彼らがそれを受け容れたことは驚愕に値した。街の司法官でもある警吏なら、ジグリット達を殺すことはない。彼らも結局は街の人間で、同じ街に住む子供を盗人といえど、痛めつけることはしても、殺すことはしないはずだ。
少し安堵したジグリットは、肩の力を抜いて背後のテトスを振り返った。彼は恐怖で白い顔をしていたが、ジグリットの視線を感じてほんの少し頬を引き攣るように動かした。
「大丈夫だよ、テトス」とジグリットは声をかけてやりたかったが、やはり声は出なかった。
数十頭の馬達は静かに飼い葉を食べたり、水を飲んだりしている。まるでさっきの騒ぎなどなかったかのように。ジグリットがぼんやりと警吏が来るはずの大通りの舗道を見つめていると、少し遠くから足音が聴こえてきた。
――警吏なら、衛兵と一緒に戻って来るはずだけど。
足音は一人のものだ。ジグリットだけではなく、テトスも兵士も、そして残っていた衛兵もその足音に気づき、全員が舗道を見やった。足音はゆっくりだったが、歩幅が広いのかあっという間に近づいてきて、瓦斯灯の下を抜けるのも一瞬だった。
ジグリットはその一瞬で、その人物が兵士であることを知った。広がった外衣の影を連れて、男は馬を迂回してこちらへやって来る。
「ファン・ダルタ様」と一人の兵が囁くように言った。
ジグリットはその名に聞き覚えがなかった。しかし、北門の真横に立てられた明かりによって、男が黒貂の外衣を見せつけた途端、ジグリットは彼が普通の兵士ではないことに気づいた。そう、話にしか聞いたことのない騎士団のことを思い出していた。
タザリア王国には、王宮を守る近衛隊と軍の指揮を執る騎士団が存在する。そして、騎士団は名誉と秩序を重んじる王の名の許に、炎帝騎士団と呼ばれていた。少数精鋭の彼らは真紅の外衣を纏い、銀の甲冑を着、それぞれの得意な武器で敵を斃す。タザリアの兵士ならば、誰もが憧れる。それが炎帝騎士団だ。
ジグリットは自分の前に立つ闇に覆われたような男を前に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けていた。
――いや、彼の外衣は黒い。炎帝騎士団じゃない。
ジグリットはそれでも、男がただの兵士ではないことを疑いはしなかった。
彼は黒髪に黒目で、それだけでも暗い雰囲気を持っていたが、黒の上下衣、漆黒の鎖帷子、さらに黒貂の外衣を纏い、上から下まで黒一色だった。そして黙っていると、野生の獣のごとく恐ろしげに見えた。それは彼の目つきのせいでもあった。貴公子然とした整った容姿に切れ長の眸は、氷の彫像のように、無情で寛容とはほど遠いように感じ取れたからだ。
男は門の前に座らされたジグリットとテトスを横目で睨むと、緊張している兵士達に訊ねた。
「なんだ、これは」
その声は冷たい夜気を裂くように響き、ジグリットはぎゅっと身を縮めた。
「ファン・ダルタ様、こやつらは盗人です」
兵士の一人がそう言うと、他の兵士も次々に口を開いた。
「この盗人は、我らがグーヴァー騎士長の愛馬、ロゼの鞍を盗もうとしたのです」
「もちろんすぐさま取り押さえましたが、なにぶん子供なので、我々が手をかける必要もないと思い、今この街の警吏を呼びにやらせています」
兵士たちの言葉に、漆黒の男は再度、座っている二人の少年を見た。ジグリットは深くうなだれ、テトスは暗闇でもわかるほど青白い顔をして震えている。普通の男なら、十歳前後の少年の悪戯など、さして重大だとは思わなかっただろうが、彼は違った。
「子供でも罪人は罪人」
その冷然とした声に、ジグリットは顔を上げた。男はすでに長剣を抜いていた。そして、馴れた手つきで剣先を振り、ジグリットではなく横にいたテトスの首に差し向けた。
「ひあぁぁっっ!」
テトスは首を仰け反るようにして後ろへ這って行こうとしたが、すぐにその背は硬い門扉に突き当たる。
「国のために命を懸ける騎士、その騎士長の鞍を盗もうとは、見上げた精神だ」
男の尖った剣先が、テトスの喉にほんの少しだが食い込んでいる。
「炎帝騎士団の名において、貴様を処刑する」
ジグリットは男が剣を少し引くのを見て、ぞわっと総毛立った。男の剣は狙いすました通り、テトスの首の一点に向かって突き出される。
「うわあぁぁぁああッッ!!」
テトスの絶叫が響き渡った。
そして――――。
「やめんかあぁぁぁっ!!」
別の男の割れた声が被さる。
さらに、ジグリットがテトスと男の間に、阻止すべく手を伸ばしていた。
ジグリットの手のひらに、カッと燃え立つような熱が走った。ついで、ぬるぬると滑る感触。しかし、ジグリットはさらに力を込めて剣を握り締めた。
「・・・・・・あっ、うわっ、わぁぁっ!!」
後ろでテトスが混乱した声を上げている。しかしジグリットは苦痛の悲鳴を漏らそうにも、声が出なかった。それに、手を離すわけにもいかなかった。
ジグリットは眼上にある男の黒い瞳を見上げた。そこには何も映っていないように思えた。しかし、実際にはファン・ダルタはジグリットと、そして彼が掴んでいる自分の剣を見つめていた。
ジグリットが素手で掴んだ剣の先から中ほどまでが真っ赤に染まり、裂けた肉からおびただしい血が溢れ出ていた。
ファン・ダルタは顔をしかめた。彼にしては珍しく、かなり動揺していた。ジグリットが掴んだ刃は、それ以上前にも後ろにも動かすことができなかった。ジグリットが渾身の力を込めて、阻止しようとしたのはわかったが、本当に止めるとは思っていなかった。剣の先にいるテトスは恐怖からか涙と鼻水を垂れ流し、口を開いたまま、わけのわからない嗚咽を漏らしている。
それに・・・・・・と、漆黒の騎士は舗道の先にいる真紅の外衣の男を振り返った。そこには厄介な彼の上官が、激しい怒気も顕わに立っていた。この説明をするのは容易ではないだろう。
「離してくれ」とファン・ダルタはジグリットに向かって言った。落ち着いた声だった。
ジグリットは頷き、そうしようとしたが、なぜか刃を掴んだ指先は一本も動かすことができない。まるで乾いた粘土のように固まっていた。
それを見て、ファン・ダルタはハァ、と溜め息をついた。そしてジグリットの手をそっと掴んだ。そのとき、真紅の外衣の男、騎士長グーヴァーが後ろから言った。
「ファン、無理やり引き剥がさない方がいいだろう。そのまま診療所へ連れて行ってやれ」
グーヴァーはもっと近くで様子を見ようと、歩き寄って来る。剣と傷を確認し、「君も無茶をするな」と言って、グーヴァーはジグリットを真正面から見た。
そして、硬直した――――。
グーヴァーは一瞬、齢五十になる大人とは思えない、幼い子供のようなきょとんとした表情になった。つられたように、ジグリットも彼を見据える。そしてファン・ダルタも上官の滅多にない顔を正視した。
グーヴァーは完全に瞳孔が開き切っていた。これ以上にないほどまで開かれた彼の翠の眸には、ジグリットが映し込まれている。グーヴァーの声は、その直後、エスタークの夜の闇を吹き抜け、窓を閉ざし眠っているすべての人々を起こすサンダウ寺院の古鐘に匹敵する大音量で響き渡った。
「ジューヌ様ッッ!?」
しかしジグリットもテトスもその名を一度も聞いたことがなかった。