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紫暁月も終わりに近づいた頃、王宮の中庭で剣戟の稽古をしている王子と炎帝騎士団の騎士長グーヴァーの姿を、城壁の上部にある巡視路を歩いていたフツは見かけた。彼は近衛隊の隊長で、だらしなく襟を開いたままの制服の胸元を、やる気のない顔でぼりぼりと掻きながら、自分の部下が仕事を怠けずに真面目にやっているかを見て回っているところだった。
「あン? ありゃあ・・・・・・誰だ?」
フツは部下の信頼も篤い隊長だが、いかんせん言葉遣いが悪かった。それに態度も大きかった。その上、眸つきも悪く、面倒臭がりだった。
「ああ、ジューヌ王子とグーヴァー騎士長ですよ。午後は剣戟の稽古をあそこでしてるんです。知らなかったんですか、隊長?」城壁のその一帯を監視している隊員の一人が、彼に近寄りながら言った。
「知るも知らねぇも・・・・・・」フツは部下の言葉に眉を寄せた。「ありゃおまえ、ジグリットじゃねぇか」
フツより五つは若い隊員は、ぷっと吹き出した。
「隊長、王子に決まってるじゃないですか。ジグリットは、この前のアプロン峠での戦闘で亡くなったんですよ?」
フツは眸を眇めて、「あぁーー?」と巡視路から身を乗り出し、中庭の小さな二つの人影を眺め、それから隊員に向き直った。彼の部下は、暗緑色の制服をきちっと襟元まで着こなし、生真面目そうに隊長が頷くのを待っていた。
しかしフツは首を振った。
「いいや、やっぱりジグリットだぜ、あれ」
「・・・・・・まさか」今度は隊員が身を乗り出し、騎士長に呆気なく飛ばされて地面に倒れた王子を見た。「いえ、あれはジューヌ様ですよ」
「違うだろ?」
「いいえ、ジューヌ様です」
二人は並んで城壁の鋸歯のようになった狭間胸壁から顔を突き出して、中庭を見下ろした。
「ほら、やっぱりジグリットだろう」
「違いますって」隊員は何度見ても変わらないとばかりに、隣りで彼らを睨みつけているフツに告げた。「隊長、わたしは何度もここの警護を任されて、彼らが午後に稽古をしているのを見てきましたが、ジグリットはあれでなかなか腕が立つ子だったんですよ。王子には申し訳ないですが、あんな風に簡単に伸されたりしませんでした」
「そうなのか?」とフツはようやく掴んでいた石塀の際から離れた。
「ええ。最近は王子もちょっとは様になってきましたが、ジグリットと比べるとまだ一歩及ばずと言ったところですね」
フツは低い唸り声を上げて考え込んでしまった。彼は自分の直感に並々ならぬ自信を抱いていた。それは他者も認めるほどで、タザリア王、クレイトスも彼の勘には一目置いているほどだ。その自分が、王子を見間違うだろうか・・・・・・? フツは唸りながら、その場を離れた。
「隊長?」後ろから隊員が声をかけたが、フツは眉間を寄せたまま、立ち去って行った。
次の日、ジグリットが昼食を済ませて、中庭の隅にある長椅子で剣戟の稽古の準備をしていると、近衛隊員が一人近づいて来た。ジグリットはしゃがんで、なめし革の脛当てを着けていた。
「ご機嫌いかがです、王子?」
ジグリットは顔を上げ、長椅子にかけたまま、声の主を見た。それは近衛隊長のフツだった。彼は腰の剣帯に手をかけ、興味深そうにジグリットを見つめている。
「別に悪くないよ」ジグリットはそう言い返し、また脛当てを着ける仕草に戻った。
近衛隊の隊長が声をかけてきたのは、ジグリットがこの王宮に来て以来、それが初めてのことだった。記憶の中でも、フツが王子に声をかけたことはなかったように思う。
――珍しいこともあるものだな。
特に疑念も抱かず、ジグリットが今度は籠手を着けていると、フツはそれを手伝おうとしたのか、しゃがんで眸の位置を同じくした。
「手伝いましょう」と彼は言った。ふとその瞬間、眸が合ったジグリットは、フツの探るような視線に気付いて、躰を震わせた。
「や、やっぱりいい。自分でできる」
慌ててジグリットが腕を引っ込めると、フツはなぜかその腕を捕らえた。
「片腕では着け難いでしょう。わたしは慣れていますから、すぐできますよ」
「いいって、自分でしないとグーヴァーがうるさいんだ」
ぐいぐいと腕を引き戻そうとするジグリットに、フツは奇妙な笑みを浮かべた。
「グーヴァー? ああ、あの腕っぷしだけは強い騎士か」
莫迦にしたような言い草に、ジグリットはフツを睨みつけた。しかしその若い近衛隊長は、気にもせず笑みを浮かべながら、さらに強くジグリットの腕を掴んだ。
「鉄槍を豪腕で振り回すだけの男、まともな剣の練習相手としてはどうなんでしょう?」
ジグリットは腕を力一杯引き寄せた。フツの手がふっとその直前に離れ、ジグリットは反動で、長椅子の上から後ろに転げ落ちそうになった。なんとかもう片方の手で縁を掴んだおかげで、落ちることはなかったが、ジグリットの中にはグーヴァーに対するフツの目に余る発言が怒りと共に渦巻いていた。
ジグリットは立ち上がり言った。「撤回しろ。彼は一流の騎士だ」そしてフツの手から自分の籠手を奪い取った。
「そうでしょうか? それにしては・・・・・・」フツはマジマジと観察するように、ジグリットを頭の先から長靴の先まで眺めた。
「何が言いたい」
「いえ、王子はそれは毎日、鍛錬されているようですが、あまり進歩がないようなので」フツは言った後、すぐに愛想笑いを浮かべた。「ああ、もちろんそれは王子がどうこうという問題ではないんですよ。教え方がね」
グーヴァーが莫迦にされるのは、我慢ならなかった。ジグリットにとって、あの騎士長は武術指南役の師匠である以上に、この王宮で彼が信頼できる数少ない人間の一人だった。
「彼は誠心誠意尽してくれている。おまえがぼくを愚弄するなら、それはぼくの落ち度だ」ジグリットはきっぱりと言い返した。
しかし、それはフツにとって願ってもない反応でしかなかった。
「それは申し訳ありません。でしたら、ここで一本、わたしと勝負してみませんか?」
「なんだと!?」
「もちろん、わたしと王子では体格差もありますし、わたしは・・・・・・そうですね」フツは剣帯の長剣ではなく、右に携えた銀色の彫り細工の入った短剣を取り出した。「この剣でお相手しましょう」
「・・・・・・グーヴァーには、稽古も戦闘の一部。常に真剣でなければならないと教わっている。ぼくは遊びで剣は抜かない」
「わたしは真剣ですよ、王子。それとも、やはり怖いですか?」
ここで退けば、フツはグーヴァーの教え方が悪いせいで、王子が軟弱なのだと言いふらすだろう。ジグリットはそう思った。王子が弱腰だと言われるのは別に構わない。ただ、それをグーヴァーのせいにされるのだけは赦せなかった。
「いいだろう。一度きりだぞ」
「それでこそ、ジューヌ王子」フツがにやりと笑った。
しかしジグリットは頭に血が昇り、彼の思惑に気付くこともできなかった。
適当にジューヌとして打ち合って、しばらくしてから倒れればいい。どうせこちらも本気じゃないんだ。ただ偶然を装って、彼に渾身の一発を喰らわせてやろうとは思っていた。
ジグリットは籠手を着けると、鎧を着けずに長剣だけを持って中庭の中央へ出た。
「王子、そのような軽装でよろしいのですか?」
フツの取り澄ましたようなにやけ顔に、ジグリットは強い口調で言い返した。
「いいんだ! おまえこそ、ぼくとグーヴァー騎士長に対して謝罪してもらうぞ」
「・・・・・・それは王子の腕次第ですよ」
フツもようやく口を閉ざした。突如、彼は見たこともない厳しい顔つきになった。それはグーヴァーやファン・ダルタといった剣匠が、ジグリットには見せない、殺気を帯びた凄みだった。ジグリットの髪が逆立ち、背筋に冷たい汗が流れた。
フツは本気なのだろうか、とジグリットは気圧されながら、ゆっくり柄を握った。しかしここで逃げるわけにもいかなかった。彼はグーヴァーを嘲り、莫迦にしたのだ。
二人は向き合い、ジグリットは長剣を、フツは短剣を鞘から抜き放った。午後の強い陽射しに、二つの銀の刃が細く煌めく。
じりっと脚を開いたジグリットに、フツは先に仕掛けてきた。フツは数歩で間合いを詰めると、右に持った短剣を背中に隠すように引いた。ジグリットが剣を薙ぎ、眸の前に左右一直線の閃光が走る。フツが察知して飛び退き、素早く左手に詰めてくる。
ジグリットはなんとかそれに付いていこうと、左にまた剣を振り下ろす。しかしその場にすでにフツの姿はなく、ジグリットが眸で彼を捜そうと首を動かした直後、背中に嫌な感触が走った。
「これで王子は一回死にました」
フツの短剣が刺さったのかと、ジグリットは青褪めて振り返った。しかし右手を上げたフツの手には短剣があり、背中には左手の指がぐいぐいとまだ押し込まれていた。
――全然動きが見えなかった。
――俊敏さだけ見れば、フツはグーヴァーより上だ。
すぐにフツは離れ、ジグリットは否応無しに彼の勝ち誇ったような顔と対面した。今度はジグリットが先に仕掛けた。剣の長さを活かして、突きを繰り出す。しかしまた思ってもみないやり方で反撃された。
フツは左に持ち替えた短剣をジグリットの長剣の刃の上を押し付けるように滑らせて、懐に入ると、右手でジグリットの首を掴んだ。
「はい、王子はまた死にました」
軽い口調で言うフツにジグリットは、カッとなって長剣を左右に振り回した。フツは届かない位置まで飛び退き、顔にはまだ余裕の笑みを讃えている。
「真面目にやれよ!」ジグリットが怒鳴る。
しかしフツは表情一つ変えずに言った。
「真面目にやるには、相手の力量も必要です。が、次はもう少し本気を出そう」
ジグリットはそれ以上、彼の言葉を聞かずに、剣を構えて踏み出した。同時にフツも踏み出し、二人の距離が詰まる。接近戦では長剣が不利なことを、もちろん近衛隊長は知っていた。
ジグリットが後ずさる前に、フツは背中でまた剣を右に持ち替えて、剣筋が見えないように背中に腕を引いたまま、素早く短剣を突き出した。いきなり思ってもみなかったところから剣先が飛び出して、ジグリットはぎょっとした。剣を振り回すにはフツは近く、さらに速すぎた。男の眸にはぎらついた獣のような気配が纏わりつき、さっきまでのふざけた気配は鳴りをひそめている。切っ先はすでに喉を捕らえようと伸びてきていた。




