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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
黒狼の騎士
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 "ジグリットのようになろうとするジューヌ王子"を演じるようになってすぐに、ジグリットはそれが成功しつつあることに気付いた。ジューヌとしてチョザへ帰還してからというもの、一人になったとき以外に彼に安息はなかったが、それが杞憂から徐々に確信へと変わるには、ほんのひと月で事足りた。

 誰も気付かないのだ。ジグリットがジューヌのふりをしても。誰一人として。元々、ジューヌ王子が引っ込み思案で内向的であったことも幸いしたのだろうが、それでもジグリットは彼を真似て上手く化けていた。

 グーヴァーと剣戟(けんげき)の稽古を始めるようになっても、ジグリットはまともに剣を扱えないふりを器用にこなしていた。

「上手いですよ、王子」

 グーヴァーはそんな彼に毎日、熱心に稽古をつけていた。

「本当に? グーヴァー、ぼくの剣、もうちょっと軽くできないかな? 造り直してもらいたいなぁ」

 ジグリットが甘えたことを言うと、騎士長は困ったように笑った。彼はジグリットに教えていたときとは、あまりに違った優しいやり方で――かなり手を抜いて――王子と打ち合っていた。それでもジグリットは、力を抜いてわざと吹っ飛び、尻餅をついて泣きそうな顔を繰り返した。

「王子、それ以上に軽い剣では、相手と打ち合った途端に折れてしまうか、極端に短いものになってしまいますよ」

 もっともなグーヴァーの言葉に、ジグリットは見せかけの反論をした。

「そんなことないよ、もっと軽かったらもっと動きやすくなって、ぼくは負けないと思うな。この剣はぼくの身長には不似合いなほど大きいんだ」

「でしたら、小ぶりの短剣(ダガー)で戦ってみますか? それでわたしに勝てるとお思いですか?」可笑(おか)しそうに騎士長が言う。

 ジグリットは彼を睨み返しながら、華美な装飾の(ほどこ)された剣を構え直した。それはグーヴァーが何度も王子に教えこんで、やっと板についたように誰しもが思っただろうが、ジグリットが元から身につけていた構えだった。

「わかったよ、もういいよ。グーヴァーには言っても無駄だもんね。鍛冶師(かじし)のチャリオに頼むから」

「無駄だと思いますけどね」

 本気じゃないジグリットと、手を抜いたグーヴァーが近づき、何度か打ち合い、そしてまた一定の距離を取って離れた。ジグリットは稽古をするたびに、尻餅をつく回数を減らし、泣き出す回数も減らした。それでも自分が本気で彼に稽古をつけてもらえるようになるまでに、一生は短すぎるだろうと思っていた。グーヴァーが怪しまない早さで、王子は成長する必要があった。ジグリットのために。

 それは勉強に関しても、同じことが言えた。

「マネスラー、ちょっといいかな」

 王子の居室での午前の勉強は、依然続けられていた。ジグリットが死ぬ前と同じように、王子と王女、そして辛気臭い講師のマネスラーは一つの机を囲んでいた。王女リネアは相変わらず勉強には、まったく興味を示さなかった。彼女はただ机に着き、自分の本を読んだり、刺繍(ししゅう)をしたり、ときにはぼうっと窓の外を眺めていた。

 ジグリットがいなくなって、マネスラーはなぜかやる気を失っていた。多分、じくじくと(いじ)める相手がいなくなったからだろうと、ジグリットは思っていた。しかし、王子が真面目に勉強に励むようになると、そんなマネスラーも徐々にではあったが、前のように力を込めて講義するようになってきた。

「なんでしょう、王子」

 ジグリットが教書を見せ「ここがわからないんだ」と訊ねると、マネスラーはいつものように眉をぴくりと動かした。

「・・・これは、両方の項に共通の数字を掛けるんです。そうすれば、こう・・・・・・打ち消しあうことができるでしょう」

 黒板に書いた公式にマネスラーが赤墨(チョーク)で指示線を記すと、ジグリットは深く頷いた。

「ああ、わかった。簡素化してやればいいんだな」

「そうです。わかったら、同じように例題もやってしまいましょう」

 ジューヌに対するマネスラーの丁寧な態度は、ジグリットには妙に背筋が(かゆ)くなる感じで、それだけはいくら経っても慣れそうになかった。

「なるほど、わかったよ、ありがとう」

 ジグリットはできるだけ、マネスラーを(わずら)わせようとした。簡単な問題もいちいち彼に質問し、時には昨日解いたはずの問題をまた解説させたりもした。

 ジューヌのようにすることは、ジグリットにも苛立ちと焦りを(もたら)したが、それは仕方のないことだった。今は我慢するしかないことを、ジグリットは誰よりも理解していた。

 しかし、マネスラーもジグリットに勉強を教えるようになって、何も勘付いていないわけではなかった。

 午前の授業を終え、午後は自分の研究する学問に費やす時間を、マネスラーは何よりも大切にしていた。

 彼は自分の居室と続き部屋になっている書斎で、助手のオイサと調べ物をしたり、ウァッリス公国の学士院から届いた最新の論文を読んだりしていたが、ここ最近はなぜか(うわ)の空だった。

「マネスラー先生? お疲れのようですね」

 オイサが書棚の前から声をかけると、マネスラーは机に肩肘(かたひじ)をついたまま、「ええ、ちょっと」と書類を(めく)りながら、気のない返事をした。

 行儀作法に口うるさいはずのマネスラーのその様子に、オイサは不安げに訊ねた。

「先生が子供が苦手なのは知っていますけど、最近はジューヌ王子もやる気になってくれたようですし、やりがいが出てきたのではないですか?」

 灰色の長衣(ローブ)の腕を上げて、マネスラーはひらひらと手を振った。

「・・・・・・おまえは教師に向いているけれど、わたしは違う」マネスラーは大きく溜め息をつく。「わたしは学士院で研究に没頭しているのが性に合うんです」

 確かに、最近の王子に勉強を教えるのは、マネスラーにとってもやりがいのあることだった。ただそれは時折、彼に不必要な幻覚を見せた。本当ならもっとできるはずだ、そう思ってしまうのだ。彼が・・・・・・ジグリットなら・・・・・・と。

 だがあの聡明な少年はもういない。ここにいるのは彼のようになろうと、一人の王になろうとしている少年だ。彼ではない。わかっているのだが、マネスラーには王子がジグリットに見える瞬間があった。それは消そうとしてもなかなか消えない幻覚だった。

 ふと、彼が本当はジグリットではないのかと思ったこともあった。しかし、それは有り得ないことだった。ジグリットなら、あんな簡単な問題に(つまず)いたり、見当違いな答えを言って彼をイライラさせたりはしなかった。彼の質問は常に的確で、彼の答えはほとんどがマネスラーを納得させるものだった。だからあの少年はどう考えても、ジューヌ王子なのだ。

 ――生き残っていたのが王子ではなく、ジグリットだったなら・・・・・・。

 恐ろしい考えが浮かび、マネスラーは自らの想像にぞっとした。

 ――何を考えている。もし生き残っていたのがジグリットだったとしても、所詮は孤児ではないか。王の庶子でもないのだ。彼がタザリアの王になることなど。いや、そうである必要がどこにある。ジグリットなら・・・・・・。

 ――ジグリットなら、ウァッリスの学士院で勉学を積めば、一流の学者になれただろう。

 ――いや、それ以上に彼なら最高学府で名誉ある称号を手にすることも・・・・・・。

 マネスラーが青白い顔でこめかみを押さえるのを、オイサは心配そうに見つめていた。

「少し休まれたらいかがです? 顔色も悪いようですし」

 マネスラーはオイサの優しい言葉に頷いた。反論の余地はなかった。

「そうですね」

 立ち上がり、マネスラーは自室の寝台(ベッド)に向かった。しかし頭の中では、そう簡単に考えを消すことはできなかった。マネスラーは自分が、いけ好かない孤児のことを、しかもすでに死んだ者のことを、そこまでぐじぐじと考える人間だとは思ってもみなかった。おかげでわけのわからない疲労まで抱えて、今まで一度たりとも生活に支障などきたしたこともなかったのにと、彼は歯軋(はぎし)りした。

 ――汚らわしい孤児(みなしご)め! 死んでまでわたしに迷惑をかけおって。

 書斎にいたオイサは、続き部屋の寝室の奥から、ぎりぎりと妙な音が聴こえてくるのに、首を傾げていた。



 王宮にいる誰しもが、一度はジューヌ王子と死んだはずのジグリットを重ね合わせようとした。しかし、ジグリットをよく知っている者ほど、現在のジューヌとジグリットを完全に一致させることはできなかった。今の王子は、あまりにも違い過ぎていた。彼はすでに、過去のジューヌでもなければ、ジグリットでもなかった。緩やかに成長しつつある、彼は王子だった。


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