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ナターシと騎士が出会っていた頃、マロシュは自分が掠め取った老婦人の刺繍の袋を手に、ニマニマしていた。きっと今晩、一番稼ぐのは自分だろう。マロシュは有頂天になっていた。
夜も更けた広場には、十二本のガス灯が煌々と輝き、すべての酒場の堤燈に火が灯り、さながら次の昼がやって来たかと思えるほど明るかった。
マロシュは、北の関所に行っているテトスのことが少し気にかかっていたが、ジグリットが行ったのなら、心配ないだろうとも思っていた。マロシュはジグリットには一目置いていた。それは稼ぎ頭の一人であるテトスも同じだったが、彼の言う一目置くとは、ジグリットの稼ぐ額のことではなかった。
マロシュはここ、西広場に捨てられていた孤児だった。広場の中央、自分が今立っているガス灯からも見える、小さな噴水の前に彼は置き去りにされた。五歳頃のことだ。自分の歳はなんとなく、それぐらいだろうというだけで確証はなかったが、多分そんなもんだ。
そのまだ稼ぐこともできないような孤児を、ジグリットは見つけて、あの貧民窟のあばら屋に連れて行った。まだはっきりと覚えている。あのとき、一階の床は抜けたままで、床板に大きな穴が開いていた。
六歳のジグリットがマロシュを連れ帰ると、彼の先輩だった三人の少年は眉を吊り上げ喚き散らした。怒鳴り、叫び、やがては暴力を振るい、ジグリットを床に這いつくばらせ、彼を全力で蹴り飛ばした。マロシュは恐怖に慄き、部屋の隅に逃げた。そこには、自分と同じ年頃のテトスが、同じようにぶるぶる肩を震わせて縮こまっていた。二人は身を寄せ合い、その苛烈な蛮行を涙を零しながら見つめた。
ジグリットは殴られ蹴られながら言った。
「昨日からずっと広場の噴水の前に立ってる。捨て子だよ」
彼の唇は切れ、涎と混じって粘着質の血が糸を引き垂れていた。それでも少年達はジグリットを蹴るのを止めなかった。
「これ以上、食い扶持増やしてどうすんだ、この野郎ッ!」
「テトスだけでも厄介だってのに!!」
「明日からてめぇの稼ぎはこれまでの倍だ。できなきゃメシは抜きだ」
三人の暴行が終わったのは、板張りの壁の隙間から朝陽が差し込み始めた頃、何時間も経ってからだった。三人の少年達は睡眠を取るため二階へ降り、マロシュは死にかけた犬のようにまだヒンヒンとか細く泣いているテトスと、倒れたままのジグリットとその場に残された。
ジグリットが死んだのではないかとマロシュは思ったが、彼はしばらくして喘ぎながらゆっくりと身体を起こし、腫れた瞼の下から二人を見た。
「大丈夫だよ、へいきへいき」と彼は見るも無残な姿で微笑みかけた。マロシュは隣りでテトスが泣き止み、茫然とジグリットを見つめるのを横目で見やり、自分もきっと同じ顔をしているに違いないと思った。
マロシュは善行なんて何の意味もないと思っている。今だってそうだ。良い行いをしても、あの東側の山裾にあるサンダウ寺院の神は、不平等なままだし、彼らを助けてくれる気配すらない。結局、善行なんて自己満足でしかない。
でも、あのとき確かにマロシュはジグリットがその年頃の子よりも驚くほどに意志が強く、信頼するに値する少年だと思った。そして今も、そう思っているのだ。だから、彼がテトスを無事に連れ帰ると決めたなら、必ずそうなるとマロシュは知っていた。
西広場は徐々に喧騒を増していた。馴染みの店にやって来た街の住民から、エスタークで一泊していく通りがかりの商人、それに広場からさらに西へ路地を入った場所にある着飾った女たちが待っている遊里へ向かう者もいた。
マロシュはしきりに目を走らせ、金を持っていそうな者を探していた。まだ店が開いたばかりで、酔っ払い客の姿はない。しかし、先に目をつけて置けば、後はその日狙う酒場が一軒に絞れる。
ここで立っていると目立つと思い、マロシュはもたれていたガス灯の支柱から身を起こし、一筋の路地へと入り込んだ。その途端、彼は路地の奥からやって来る二つの影に目を瞠った。その小さな影と大きな影は、広場の明かりの下へと出てくると、まるで親子のように見えた。
「ナターシ? おまえ、何してんだ!?」
ナターシはマロシュの驚いた顔を前に、バツの悪そうな表情で目を逸らした。
「ああ、ここが広場だな、案内ありがとう」と真紅の外衣の男が感謝を述べる。
マロシュは眉をひそめて、その騎士をジロジロと無遠慮に上から下までしっかりと観察した。
――この身なり・・・・・・・・・・・・王宮の騎士団だ。
マロシュは開いた口が塞がらないほど驚いた。彼ですらその外衣のことを知っていた。それは炎色と呼ばれる、騎士団の中でも上位の騎士しか身に付けることが許されない特別な外衣だった。中に見える鎧も、鍛え上げられた見事な鋼で、目が合った男の翠の瞳と相まって、恐ろしいほど輝きを放っている。マロシュは息を呑み、瞬きも忘れて突っ立っていた。
男は齢五十に入るか入らないかといった、騎士としては低迷していく年代に差しかかっていたが、成熟しきったその心身は鎧の下からでも強靭で堅固であることが感じ取れた。
「君は彼女のお兄さんか?」
騎士に問いかけられ、マロシュは狼狽しながらもなんとか返答した。
「えっと、そ、そのようなものです」
騎士は首を傾げて、僅かに生えている顎鬚を指で擦った。
「友人か。まぁ、いい。こんな夜遅くに、女の子を外に連れ出すもんじゃない」
今度はマロシュだけでなく、ナターシまで目を丸くした。二人は騎士が自分達を上流貴族の子供だとでも間違っているんじゃなかろうかと思った。しかし、二人の格好はどう見ても貴族の子供ではなかったし、それどころか下層民より酷かった。ナターシはガス灯の輝きで、上衣の黒ずんだ袖がさらに汚れて見えたし、マロシュの着古した毛編はあちこちからほつれた毛糸が四方八方に飛び出し、首周りはよれて肩が半分露出していた。
「本当に助かったよ」騎士は気にせずそう言い、ついで自らを名乗った。「わたしは炎帝騎士団のグーヴァーという」
そこでマロシュは耐え切れずに声をあげた。
「グーヴァー騎士団長!?」
「わたしの名を知っているのか」
マロシュは反動がついたように、一気に口を開いた。
「もちろんです、このタザリアで炎帝騎士団のグーヴァー騎士団長を知らない男はいません! 百戦錬磨の騎馬戦士! タザリアの誇る名騎士です」
マロシュの声は甲高く震え、喜悦と興奮に満ちていた。彼は痩せこけた血色の悪い頬をでき得る限り赤らめ、眸はキラキラと騎士を捉えて輝いていた。マロシュは息もつかずに続けて言った。
「聖階暦2000年にタザリアがナフタバンナとウァッリスの両国から攻め入られたとき、グーヴァー騎士団長はたった五百の兵を率いて、一万の大軍を討ち破ったんですよね! グーヴァー騎士団長の槍は穂が敵の血と脂で丸くなって、その愛馬ストラスの周りに敵の屍体が山のように築かれたって聞きました!」
今度はグーヴァーが困惑する番だった。彼は苦笑いしながら言った。
「昔のことだが、褒められると悪い気はしないな。しかも君のような、これからの少年に英雄のように言われるとね」
ナターシはマロシュが頬を赤らめて、羨望の瞳で騎士を見つめているのに気づき、このオジサンから黄金の剣を盗もうとしなくて良かったと思った。
「ぼくはマロシュといいます。こっちのはナターシ」
いまだ興奮覚めやらずのマロシュは、一時も騎士から眸を離すことができないようだった。
「そうか、ナターシに道案内をしてもらったんだよ。この街は路地が多くて、いつ来ても迷ってしまってね。ところで、連れの兵士が『銀河亭』という酒場で待っているはずなんだが」グーヴァーは西広場を一望した。全方位に酒場が円状になって連なっている。どの店も同じ店に見えても仕方がないほど密接し、似通っていた。「確か美味い火酒を呑める店なんだ」
マロシュが得意げにグーヴァーの右斜め後ろを指差した。
「あの店ですよ『銀河亭』なら。火酒も美味しいらしいですけど、この季節なら茱萸酒もお薦めです」
まるで店主のような口ぶりに、グーヴァーは顔を綻ばせた。
「そうか、どうもありがとう。君たちにはお礼をしなきゃな」
彼がそう言って、懐から金貨の入った袋を取り出そうとしたとき、三人の耳に騒がしい声が聞こえてきた。
「きぃしちょーーー」とそれは間延びしてマロシュとナターシに届いた。二人は顔を見合わせ、ついで黒き炎の騎士団長を見上げた。
声の主が一本の脇道から走って来る足音がして、今度は間違いなく二人の耳にもその叫び声が「騎士長ぉぉぉぉっ!!」と言っているのがわかった。
「なんだ、うるさいヤツだ」とグーヴァーは眉をひそめて呟いた。そのときには、すでに彼には声の主が誰なのか検討がついていた。
大通りの方から駆けてきた青年は、動きやすそうな薄灰色の鎖帷子で、甲冑も外衣も着用していなかった。しかも、まだ大声を出すつもりなのか、大口を開けたままだった。
グーヴァーは広場の中央にある噴水を挟んだ場所から彼を睨みつけたが、青年は懲りずにまた叫んだ。
「騎士長ぉぉっっ! こんな所にいたんですか!」
「うるさいッ!!」グーヴァーは腹の底から一喝した。「おまえの絶叫は聞き飽きたわ!」
隣りにいたマロシュとナターシが思わず耳を塞ぐほどの雷声だった。酒場に入ろうとしていた幾人かの団体がその声に立ち止まり、こちらを見たほどだ。
青年はグーヴァーに走り寄ると、叱られたことなど微塵も気にしていないかのように、早口で喋り始めた。
「大変ですよ、騎士長。北の関所で盗人騒ぎがあって、騎士長の鞍が盗まれるとこだったんすよ!」
グーヴァーはそれを聞き、さらに深い皺を眉間に刻んだ。
「おれの鞍が、盗まれるとこだっただと!?」
「ええ、まぁ。その盗人は捕まえたんですがね、これがまた、」とそこで青年は初めてグーヴァーの隣りにちょこんと突っ立っていた二人の少年少女を見下ろした。「なんすか、この子たち。もしかして、騎士長の隠し――」
しかし彼の言葉は最後まで口から発せられることはなかった。グーヴァーがその大きな拳を脳天に叩きこんだからだ。
「おまえの悪癖はその無闇やたらに話したがる口だな。おれの剣で縫いとめてやろうか、あァ?」
「そんな・・・・・・冗談でしょう、騎士長」
頭を押さえて情けない声を出す青年に、グーヴァーは腰に手をやり剣頭を掴んだ。
「おれは冗談など言わん」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ、騎士長。そんな寸劇を演じてる場合じゃありませんよ。とにかく来てください。早く!」
「寸劇だと! ジャノウ、おまえ――」
しかしグーヴァーの文句は、青年の有無を言わせぬ逃亡によって消滅するしかなかった。青年はさっさと走り出し、来た道をまた駆け戻って行く。
「ジャノウ、待て!」
置いていかれてまた道に迷ったりしたら、もはや目もあてられない。グーヴァーは仕方なしに彼を追うことにした。立っていた二人の子供たちに礼を言うのも忘れない。
「すまない、君たち。何かあったらしいので、もうわたしは行くが、明日の早朝にでも北の関所へ来てくれれば、相応の礼は約束しよう。本当に助かった、ありがとう」
グーヴァーが青年の後を追って街路の奥へ駆けて行くと、ナターシは困惑げにマロシュを見た。
「本当にお礼くれるのかしら?」
しかしマロシュはまったく別のことで頭がいっぱいになっていた。今、あの兵士が言ったことが本当なら、盗人というのはもしかして、テトスのことなんじゃないだろうか、と。しかも、盗人を捕まえたと言っていた。
ナターシは険しい表情で立ち尽くしているマロシュに首を傾げた。
「ねぇマロシュ、聞いてるの?」
マロシュはそれに返答せず、いきなり彼女を置いて走り出した。
「ちょ、ちょっとっ、マロシュ、どこ行くの?」
「ナターシ、おまえ家に帰ってろ!」
一度だけ振り返り、そう叫ぶ。ナターシはわけがわからないといった風に手を振り挙げた。
「仕事はどうすんのさぁ」
返事はなく、彼女は三人が消えた一本の小路をただ見つめるしかなかった。