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ジューヌは生きていた。彼はびしょ濡れになっていたが、それでもどこにも大きな怪我はしていなかった。橅の木に当たった瞬間、葉や枝に叩きつけられ擦られ切りつけられたりもしたが、引っ掻き疵一つ付かなかった。それもこれも彼の着ていた黒ずんだ板金鎧のおかげだった。重い黒金の兜は彼の頭を完璧に守り、革の腕当てと毛皮の長靴が暴れる両手両足を骨折から救った。
しかし、彼のぶつかった木は川岸に迫り出して立っていた。おかげで、ジューヌは地に落下せず、そのまま流れの緩やかな水面に潜り込むはめになった。もう死ぬのかと強く眸を閉じ、歯を噛み締めていたジューヌは、自分が川に着水したことに気付かなかった。しばらくして息が苦しくなり、彼は水中でまたもがいた。そして文字通り、死に物狂いで泳いだ。
こうなってみると、板金鎧や兜はむしろ何の役にも立たないどころか、彼を川底へ引っ張り込もうとする厄介な敵となった。ジューヌは泳ぐのを諦め、鎧と兜を脱ごうとしたが、一人で着ることもできないような物を、また一人で脱げるわけもなかった。それらは彼の躰に絡みついていたのだ。いよいよ息が続かなくなり、ジューヌは手足をばたつかせた。その時だった。足先が川底を掠った。彼は足をつけ、立ち上がった。驚いたことに、そこは水深一ヤールもない浅瀬だった。
今ジューヌは、川から上がり、ずり下がった兜をなんとか時間をかけて脱いだところだった。彼は自分がなぜ落ちたのかをきちんと理解していた。そしてここがどこで、自分がどうすべきかも理解していた。ただ、理解するのと行動するのは別なのだと言うことも、彼は知っていた。
暗い森は不気味にざわざわと呻いている。
――早く誰か助けに来てくれないかな。
水の入った鎧では立ち上がることもままならなかった。ジューヌは橅の幹に凭れて溜め息を漏らした。耳を澄ましても、助けが自分を呼ぶ声は聴こえてこない。しかし、彼はある方角から、下生えを踏み分ける複数の足音に気付いた。
「ようやく来たか。遅いよ、まったく」ジューヌは座ったまま呟いた。そして叫んだ。「おーーい、ここだよっ! 早く早く!!」
返事は想像と違っていた。四人の灰色の外衣の男達が驚いた様子で現れた。彼らは鋼の鎧に身を包み、険しい表情を崩さず口々に言った。「なんだ、こいつは」「さぁ、迷子?」「こんな所に迷子がいるか」「見ろよ、タザリアの兵士みたいだぜ」
ジューヌは自分が見習い兵と同じ格好をしていることに気付いた。彼らはタザリアの王子の顔を知らないから、こんな無礼な事を言っているんだと彼は思った。
「ぼ、ぼくはジューヌ・タザリアだぞ。無礼な口を利くな!」なんとか虚勢を張っては見たものの、顔は青褪めていた。
四人の自由騎士はゲラゲラと莫迦笑いを上げた。「おいおい、タザリアだってよ」「嘘をつくにもほどがあるぜ、なぁ」「よりによって王子の名前じゃ、無礼はどっちだって話だよ」
ジューヌは彼らのあまりな態度に今度は顔を赤らめた。そして自分の耳を指差した。「愚か者どもめ、これを見ろ! 我がタザリア王家の紋章だぞ。おまえらまとめて父上に突き出してやるからな」
ジューヌの耳には板金板の耳飾りがぶら下がっていた。そこには確かに黒き炎の紋章が描かれている。騎士達は揃って口を閉じた。彼らが大人しくなったので、ジューヌは満足だった。しかし、彼の命運はそこまでだった。
「・・・・・・本物じゃないか?」騎士の一人が兜の前を上げ、ジューヌに小汚い青髭の顔を近づけた。息が酒臭かった。どうやら四人共、戦闘中だというのに、仕事を放り出して森の中で祝杯でもあげていたかのようだ。本来なら国に属する肩章を付けているはずが、全員それすら付けていなかった。この戦いにだけ雇われた傭兵なのだろう。
「だとしたら、どうする?」もう一人の騎士が言った途端、彼らは全員お互いの顔に眸を走らせた。そして示し合わせたように、にやりと笑った。
四人の騎士が剣帯から長剣を抜いても、ジューヌは眉をひそめただけだった。「なぜ剣を抜く。どうでもいいから早くこの鎧を脱がせてくれよ。水が入って重い。脱げないんだ」
騎士達はへらへらと口元に冷ややかな笑みを浮かべていた。
「おい、聞いているのか!」
「ああ、聞いているさ、王子様」一人の騎士が一歩前に出てきた。
騎士達の磨かれた剣はこれから味わう血のために活き活きと輝いていた。森は深く、川の流れは様々な音を吸い込んでいた。四人の騎士が放つ喜悦と残虐な空気は、目前のジューヌではなく、十ヤール離れた高台の木陰に立ち尽くしていたジグリットに届いた。彼は凍りついたようにその光景を見下ろしていた。
――あれは、もしかしてウァッリスの兵!?
だとしたら、ジューヌは殺される。ジグリットは自分の剣帯に手をかけた。しかし、その衝動に疑問を抱いた。
――ぼくが出て行けば、助けられるか?
その答えは限りなく否だ。二人共、殺されてしまうだろう。その時、ジグリットの脳裏に、マウー城で会った道化師と名乗った老婆の言葉が過ぎった。
「事が起きる瞬間に、おまえは必ず気づくだろうよ。だがその選択は間違っちゃいない。隠れておいで、でなきゃおまえも死ぬからね」確かに老婆はそう言った。そして続けてこうも言った。「双子の月はいつまでも定位置にはない。やがてはぶつかり片方が砕けるのさ」
――あれはこの事を示していたと言うのか。
――あの老婆は・・・・・・予言師か。
色々な疑問が湧き出たが、ジグリットはひとまずそれらを脇に追いやった。彼が考えている間に、ジューヌも自分の置かれた状況を理解したらしい。
「お、おまえ達・・・・・・ぼくを殺す気か? 嘘だろう?」震える声がジグリットにも聴こえた。
騎士は恐怖に竦む少年に、無慈悲な嘲笑を向けた。「安心しろ。子供相手に酷いことはしないさ」
そして剣で躊躇うことなく、彼の白い首を刎ねた。
「――――ッ!!」
ジグリットにはジューヌの顔がはっきりと見えた。彼は首を斬られた瞬間、口を大きく開き、歪んだ顔で絶叫した。しかし声は首と共に途中で掻き消えた。
騎士は剣の血を振り払い言った。「苦しませることはな」しかしその言葉はもうジューヌには聴こえていなかった。
ごろごろと下生えの草の上を丸い物体が鮮血を撒き散らして転がって行く。ジグリットは自分の口を手のひらで強く押さえた。そうしないと、悲鳴が漏れそうだった。彼らは首を持って行こうと、無残にもジューヌの髪を鷲掴んだ。ジグリットはそれを見た瞬間、今までにないほどの憤りを感じた。一介の傭兵ごときが、敵国の王子とはいえ、そんな扱いをしていいはずがない。
背後で二頭の馬が静かに立っていた。ジグリットは鹿毛の馬の手綱を引き寄せ、その耳に囁いた。馬の黒い澄んだ眸が、怒りと共に厳しい顔つきになったジグリットを映していた。鹿毛は高台からジューヌに向かって斜面を駆け下りた。ジグリットはもう一頭の栗毛の手綱を手放した。「行け!」と彼は低い声で命じた。
斜面の下ではウァッリスの騎士達が眸を瞠っていた。「おい、馬だぞ!」「王子の馬か」彼らが困惑している中に、ジグリットはその場から下に向かって叫んだ。
「いたぞ!! ここだ、早く来てくれッッ!!」騎士は今度はジグリットを見た。彼らの眸に恐怖が宿る。ジグリットは背後を振り向き叫んだ。「敵はたった四人だ! グーヴァー、早く来てくれ!」そしてジグリットは手に隠し持っていた拳大の石を駆けて行く自分の馬に投げつけた。栗毛は躰に石が当たると、ヒィーーンと高く嘶いた。
「グ、グーヴァーって言ったぞ」「タザリアの騎士長だ」「そこまで来てるぞ」「逃げろっ!」騎士達はあたふたと逃げようとした。そこでジグリットは自分の兜を取り、笑いながら彼らに叫んだ。
「おい、おまえら、それは影武者の首だぞ! 本物のジューヌ・タザリアはわたしだ!」
騎士達は逃げる足を一瞬止め、ジグリットを再度振り向いた。彼らに疑う余地はなかった。ジグリットの鋼の板金鎧は見事な深緑に輝き、さらに外衣は暗紫色だった。タザリアの王族だけが紫に染められた外衣を背負えることは、周知の事実。他国の傭兵でもそれぐらいのことは聞き及んでいたのだ。
「クソッ!」「捨てろ、んなもん捨てっちまえっ!」騎士は持っていたジューヌの首を放り出した。彼らは追っ手に怯えて、一目散に森の奥へ駆け込んで行った。
辺りはまた、川のせせらぎの音だけとなった。ジグリットは栗毛の馬を呼び、怒っている牡馬を宥めた。騎士を驚かせた鹿毛の馬は、すでにどこにも姿がなかった。
ジグリットは栗毛に乗ると、斜面を一気に駆け下りた。馬を降りた彼は、草と泥に塗れたジューヌの首を拾い上げた。無残な状態になった少年の顔は苦痛に歪み、眸はカッと見開いていた。その眸を指先でそっと閉じる。ぬるぬると溢れる血の臭いは、ジグリットの呼吸を妨げ、彼は橅の根元に思わず嘔吐した。栗毛がその臭いで不機嫌そうにぶるっと鼻を鳴らした。
ジューヌの躰はまだ木に凭れかかっていた。安っぽい鎧が転がっているだけのようにも見えたが、その鎧の首口からは赤黒い血が幾筋も垂れていた。ジグリットはどうすればいいのかわからず、首を抱いて逡巡していた。
――このまま一人で帰って、皆にどう説明すればいいだろう。
この事が知れたら、皆ジグリットを責めるだろう。彼の影武者でありながら、戦場で彼を一人にした上、殺される彼を助けに出て行くことすらできなかったのだ。
――結局、使命より自分の命を取ったんだ。
そう思うと情けなかった。タザリアへ帰らず、どこか遠い国へ逃げてしまおうかと、ジグリットは現実逃れなことばかり考えた。しかし、どこか遠い国よりもジグリットはタザリアに居たかった。あのチョザの王宮に。騎士長のグーヴァーや冬将の騎士と共に。長い年月の間に、あの場所こそが彼の家になっていたのだ。
――皆に嘘をつくしかないか。
ジューヌが勝手に崖から落ちたと。しかしそこでジグリットは考え直した。
――いや、ジューヌが崖に自ら近づくことだってあり得ない。彼は臆病なんだぞ。
抱えている首をジグリットは見下ろした。錆色の髪に落ち葉が絡まっている。ふと、ジグリットの眸にある物が映った。
――耳飾り・・・・・・。
タザリア王家の象徴。黒き炎の耳飾り。
――もしかしたら、これで切り抜けられるかもしれない。
彼は首を地面に置き、その横にしゃがみ込んで耳飾りを外した。そしてそれを自分の耳につけた。板金板の耳飾りはいやに重く感じたが、ジグリットは両方の耳の下でそれがぶら下がると、胸の鼓動が早くなった。これで自分も王族になったような気がしたのだ。本物に。本物の王子に。だが、その浮き立つ気分は長くは続かなかった。彼の胸の内でリネアが囁いたからだ。彼女の言葉はいつでも毒のように、ジグリットを正気づかせた。甘い夢を見ることを彼女は赦さなかった。
――ぼくはジューヌだ。ジューヌ・タザリア。
自分に言い聞かせる。そして今度は声にも出した。
「ぼくはジューヌ。ジューヌ・タザリアだ。ジグリットは死んだ」
アンブロシアーナのおかげで、ジグリットは容易く話すことができた。もし彼女に会っていなかったら、こんな事は思い付いても実行できなかっただろう。そして、ジグリットは自分でもその声がジューヌの声に似ていると確信していた。難点は少しジグリットの方が、声が低いということだけだった。それも気をつけて高めに話せばいいだけのことだ。
時間がなかった。ジグリットはすぐに栗毛に騎乗した。本当なら、ジューヌの躰も持って行きたいところだが、屍体を二つも抱えて(首と躰で二つ)斜面を登るのは到底無理だった。ジューヌの外衣で首を包み、栗毛の鞍に結びつけると、彼はその場を足早に駆け出した。




