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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
43/287

 あれから数日の間に、ジグリットは何度かマウー城の地下へ行ってみたが、老婆は現れなかった。それが何者なのか、それとなく侍女や侍従、それに数人の衛兵や騎士に探りを入れてみたが、やはり知る者はなかった。ジグリットにとって、その日の出来事は夢にしては明瞭(めいりょう)で現実的すぎた。だが、(かえで)が葉をすべて落とし、雪の気配が訪れる頃には、ジグリットは別の事で頭がいっぱいになり、老婆のことを忘れてしまっていた。

 タザリアはナフタバンナ王国との緊張緩和が成ったばかりだと言うのに、今度は南東のウァッリス公国と、エネルギー源である歪力石(コピアストーン)と魔道具の交易条件で意見の相違があり、一触即発の状態となっていた。

 雪が散らつくようになると、蛍藍月(なつ)にはジグリット達が抜けてきた暴君山脈(テュランノス)のアプロン峠で兵士同士の小競(こぜ)り合いが起き、戦争へと発展するのに五日もかからなかった。そそり立つ(つるぎ)のような群峰(ぐんぽう)は、すでに白い冠となった雪で覆われ、戦禍(せんか)の情報はなかなか届かなかった。

 タザリア王は、北から戻ったタスティンを今度は南のアプロン峠を越えた(ふもと)の街、ヴァジッシュに攻め入るよう命じた。昔からヴァジッシュはタザリアとウッァリスの間でどちらの領土の街かで()めることが多かったが、このときはまだウァッリス公国の領土とされていた。

 先発隊二千人を連れ、炎帝騎士団の騎士長グーヴァーと数人の騎士が先にウァッリス公国のヴァジッシュに進攻していた。タスティンは炎帝騎士団の騎士の半数以上と、一千五百の兵を(ともな)い、その後を追った。その中に、冬将(とうしょう)の騎士ファン・ダルタは含まれていなかった。彼は最前線へ(おもむ)くことを王に直接願い出たが、聞き入れられなかった。チョザの防備が手薄になれば、それを幸いにと西方のゲルシュタイン帝国や国交回復に至ろうとしているナフタバンナ王国が攻めて来る危険があったからだ。

 低い暗雲が垂れ込めていた。その日、チョザの街は一足早い大吹雪になっていた。ジグリットは荒れ狂う風をソレシ城とアイギオン城を繋ぐ渡り廊下に立って、厳しい顔つきで眺めていた。ここのところ、ジグリットはわざと強い風や雪の日に外へ出て、その寒さの中でタスティンやグーヴァーの無事を祈っていた。彼らがここよりもずっと過酷な場所で戦っている事を思うと、ジグリットは祈らずにはいられなかったのだ。そして、その祈りを胸の内で(ささや)くたび、ジグリットはフランチェサイズの少女神(コレツェオス)、アンブロシアーナのことをも思い出していた。

 ジグリットの中で、彼女の記憶は一つも色褪せることがなかった。その声も、その笑顔も、ちょっとした仕草でさえ、細部にわたって思い出すことができた。しかしそれはまた、堪えられないほどの物悲しさとやる瀬なさを彼に与えた。

 渡り廊下の凍りついた欄干(らんかん)を手に、ジグリットがチョザの街の方へ顔を向け、ぼんやりしていると、正門の跳ね橋の方から騒がしい声が聴こえてきた。ジグリットはよく見ようと、城壁の巡視路(じゅんしろ)へ移り、そこから橋を渡る二頭の黒毛の馬と甲冑(かっちゅう)に身を包んだ二人の兵士を見下ろした。

 彼らはしきりに叫んでいた。「陛下に知らせるのだ!」「一刻を有する!」

 ジグリットは走り回る小姓や兵士の顔から、嫌な予感を覚えて、アイギオン城へ駆けて行った。城の中はすでに騒然としていた。ジグリットは三人で固まって話していた侍従を捕まえて、何があったのかを黒板に書いて訊ねた。

「ジューヌ様・・・・・・? ああ、ジグリットか。大変だよ!」「タスティン様が」「ヴァジッシュの陥落(かんらく)には至らず、王子が落命されたらしい」

 三人共が一斉に喋ったせいで、ジグリットは聞き取り難かったが、最後の一人の一言は、嫌でもはっきり聴こえた。

 ――タスティンが死んだ!?

 ――そんな莫迦な・・・・・・。

 驚愕しているジグリットに、侍従達は顔を寄せ口々に言いあった。「タスティン様がいなくなったとなると、これから誰が軍の指揮を()るんだ?」「それより、ウァッリスがここまで攻めてくるかもしれないぞ」「ジューヌ様が出陣なさるなどと言うことは万に一つもあり得ないよな」

 ジグリットはもうその場を駆け出していた。彼はアイギオン城の謁見室(えっけんしつ)へと向かっていた。あの屈強(くっきょう)なタスティンが死ぬなんて、何かの間違いに決まっている。ジグリットが謁見室に着いた時、ちょうど中から四人の男が出て来た。そのうちの一人は、冬将の騎士だ。残りの二人はヴァジッシュから帰還した兵士で、最後の一人は近衛隊の隊長フツだった。彼らはそれぞれ自分の主張を通そうとするかのように、がなり合っていた。

 フツと言い争いをしていたファン・ダルタは、ジグリットに気付いて足を止めた。

「こんな所で何をしている?」と彼は訊いた。

 フツは横目でぎろりとジグリットを睨み、通り過ぎて行った。

 ジグリットが黒板に[タスティンのことを聞いた。嘘だよね?]と書くと、それを見た騎士の顔はいつも以上に険しくなった。

「タスティン様はタザリアのために殉国なされたのだ」

 ジグリットは耳を疑った。では、彼は本当に死んだというのか。北で長い間(きた)え抜かれたはずの彼が死ぬなんて事は、想像さえできなかった。

 ファン・ダルタはジグリットの肩を抱いて、謁見室から遠ざけようとした。ジグリットはふらふらとそれに従い、彼らはアイギオン城の南のアンバー湖を(のぞ)小塔(タレット)の一つに入った。誰の気配もなく、その場所は静寂に包まれていた。

 ジグリットはただ寒かった。異常なほど寒気を感じた。全身を震わせ、タスティンのことを考えまいとした。しかしそれは無理だった。ジグリットの頭の中で、タスティンは苦しげに(うめ)いていた。

 ――タスティンを殺したやつらを殺してやる。

 ジグリットは自分の考えを恐ろしいとも思わず、その顔のない想像上の敵の姿に戦慄(せんりつ)した。そして武者震いのようにぶるっと躰を揺らすと、ファン・ダルタがそれを止めるように彼の肩を掴んだ。

「ジグリット、よく聞くんだ」まだ茫然(ぼうぜん)としているジグリットに騎士は強い口調で言った。「敵はすでにグイサラーを越え、(とうげ)を抜けようとしている。これがどういう事か、おまえにはわかるだろう」

 つまりそれはウァッリスの兵がタザリアの領土に入って来ようとしていることを示唆(しさ)していた。しかしジグリットは頷かなかった。ただ騎士の黒い眸を見上げただけだった。

 ――王子が死んだというのに、国の心配をしなければならないのか。

 ジグリットには理解できなかった。

 ――庶子(しょし)の王子だからか。第二夫人の子だからか。だから・・・・・・死んでも平気なのか。

 ジグリットの顔に浮かんだ言葉を、ファン・ダルタは意識的に無視した。彼は根っからの軍人であり、戦闘中に仲間の死を(いた)んだりはしなかった。彼がそれを思うのは、いつでも戦いが終わった後だった。そうしなければ、彼が騎士であり続けることすらできなかっただろう。

「陛下は次の進軍に、ジューヌ様をご指名になる」

 騎士はジグリットの眸を覚まさせようと言った。しばらくジグリットはその言葉を理解しようとさえしなかった。しかし、一度大きく瞬きをすると、その意味するところを知り、(つば)と共に驚きの声を呑み込み、黒板を抱えて急いで文字を(つづ)った。

[ジューヌが出陣? まさか、それこそ嘘だ]

 眸を見開いたジグリットに、騎士は項垂(うなだ)れた。

「ああ、そうだ。嘘のようだが、これも本当だ。陛下はウァッリスの兵にテュランノスを越えさせるつもりはないと(おっしゃ)っている。峠でやつらを押し戻さなければ、勢いを増してチョザへ攻め入られる事も考えられる。ジグリット、ジューヌ様が出るなら、もちろんおまえもアプロン峠に向かわなければならない」

 ジグリットの手から白墨(チョーク)が落ち、床で粉々に飛び散った。

「おまえはジューヌ様の影だ。正式に陛下から通達があるだろうが、断ることはできない。おまえの使命は、王子を命を()けてお守りする事なのだ」

 ジグリットは白墨の欠片を拾い上げ、黒板に震える指で押し付けた。

[ファン・ダルタは一緒じゃないの?]

「・・・・・・おれは別の任務を与えられた。北と西の両方を見張れるジリス(とりで)に向かう。この機会を狙って、ゲルシュタインとナフタバンナが進攻しないとも限らないからな」しかしファン・ダルタの顔はその主命に不満を(あら)わにしていた。「陛下の決めた事だ。何度も掛け合ってみたが、やはり峠には騎士長も出撃なさっているから、それ以上の騎士を割くつもりはないとの御返事だった」彼は溜め息と共に、塔の窓から見えるアンバー湖の寂しい紺碧(こんぺき)の水面を見つめた。「チョザには近衛隊が残って警備にあたる。おまえは何も心配せず、ジューヌ様をお守りする事だけを考えていろ」

 ジグリットは、彼がジリス砦へ行ってしまうことや、自分がジューヌと共に戦場に赴くことを思うと、恐ろしさのあまり身が(すく)んだ。リネアが何度もジグリットに皮肉として言ってきた言葉が脳裏を()ぎった。

「おまえはジューヌの身代わりになって死ぬために生きているのよ。ちゃんと使命を(まっと)うなさい。少しでもあの子に似ているうちにね」

 それが本当になるかもしれないのだ。しかし、ジグリットはまた、別の人物の言葉をも思い出していた。

「あんなヤツよりぼくの方が王子であるべき人間だ」

 ジグリットは首を振った。

 ――まさか、そんな事・・・・・・一度も思ったことはない。

 しかし、今自分がそう思っていないかと問われると、ジグリットは即座に返事をすることができないとも感じていた。

 冬将の騎士とアイギオン城に戻って別れると、ジグリットはとぼとぼとソレシ城に入って行った。その後すぐに、タザリア王がジューヌを謁見室に呼びつけ、王子は正式にアプロン峠に兵を引き連れ、出立(しゅったつ)することとなった。

「ぼくが出陣ですか?」ジューヌは一応礼儀を(わきま)えて、王の前に(ひざまず)いてはいたが、その内容に大きな不平を見せた。

「そうだ、我が息子よ。おまえにはアプロンの入口を死守してもらいたい」

「そんな大任をぼくに・・・・・・」そう言いながらも、ジューヌの胸の内では激しい恐れが渦巻いていた。王は安心させようとするかのように、大きく破顔した。

「案ずるな、おまえには最高の騎士がついているではないか」しかしそれは全くの逆効果だった。

「ジグリットのことを言っているのですか、父上。あれは騎士などではありません。同じ(かお)を持つ異形です」嫌悪の表情でジューヌが答える。だが、それも王は意に介さなかった。

「ハハハハハッ、確かにジグリットは子供にしては聡明だ。同じ年頃なら異形にも思えよう。ギィエラを捕らえたあの手腕(しゅわん)最早(もはや)子供とは言えんわ」

 王は明るく笑い声を上げていた。ジューヌは眉を寄せ、この進軍を何とか別の者に代わってもらおうとしたが、どんなに彼が異論を唱えても、王の決定は(くつがえ)らなかった。

 そしてジューヌの次にはジグリットが謁見室に呼ばれた。王はジグリットには、やはりジューヌの護衛(ごえい)を強く命じた。タスティンが亡くなったことを聞いたばかりだと言うのに、もうジグリットはそのことを考える余裕さえなくなっていた。それほど時の流れは早く、まるで濁流(だくりゅう)に呑み込まれているようでさえあった。


挿絵(By みてみん)

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