第七章 冴えた隻影 1
第七章 冴えた隻影
フランチェサイズの繁栄の儀から戻ってひと月、季節は黄昏月も半ばを過ぎていた。王宮の楓の木が紅葉し始めると、タザリア王は北のロンディ川上流付近に停留させていたほとんどの部隊をチョザへ戻した。リネアのフランチェサイズでの交渉が功を奏し、ナフタバンナ王国との軋轢が緩和されてきたのだ。
タスティン王子も帰還して、王宮はまた以前のような穏やかな平静の時を取り戻そうとしていた。彼は北での生活が長かったせいか、一年前とは大きく異なり、タザリア王のような濃い顎鬚を蓄えて、筋肉質だった躰もさらにがっちりと厚みを増していた。彼はもう立派な大人になっていた。
しかし、そんな中でも変わらないものもあった。ジューヌの内気とリネアの虐めだ。むしろ彼らに関しては、以前よりも助長されていた。タザリア王はジューヌが軟弱なのは、侍女のヤーヤが彼を必要以上に甘やかせるからだと言って、彼女を解雇した。ところが、ジューヌの引っ込み思案は、それを経てなお酷くなってしまったのだ。
そしてリネアの加虐性については、ジグリットが一番、痛手を被っていた。タザリアに帰国してからというもの、彼女はジグリットを部屋に呼んで、侍女がやるような仕事を言いつけたり、衣装室に閉じ込めて午後の剣戟の稽古に行かせないようにしたりした。少しでも反抗的な眸を向けると、彼女はジグリットの腕や脚に手酷い引っ掻き疵を負わせたり、血が滲むまで物で殴ったりして、ジグリットが気力を失うまで続けた。
そんなある日、ジグリットはリネアの執拗な侮蔑に耐えかねて、彼女の部屋を飛び出した。リネアが戻って来るように命じる怒声が聴こえたが、ジグリットは階段を駆け下り、ソレシ城を出た。黄昏月の残照が優しく王宮を包んでいたが、ジグリットは一心不乱に駆けて、人のいない場所へと走って行った。
マウー城へ彼が入ったのは、それが二度目だった。ジグリットは二階の廊下で侍従の声がするのを聴き、避けようと地階へと降りて行った。そこは風もないのに肌が粟立つほど寒く、静かで暗い場所だった。マウー城の地下に何があるのか、ジグリットは知らなかった。王宮にはおびただしいほどの部屋があり、ジグリットが知るだけでも、王宮の三つの城と七つの塔の三分の二ほどだった。
だからそこが何の部屋なのかわからなくても、ジグリットには不思議はなかった。ただ、尋常ではない寒さに彼は震えた。長靴は、ぴちゃぴちゃと濡れた足音を立て、黒い御影石の石畳に、大気中の水蒸気が水滴となって天井から落ちている。壁の松明はすべて消えていた。ジグリットは眸が馴れるまで、その場に立っていたが、やがて暗く長い通路をまっすぐに歩いて行った。
今では彼はリネアの仕打ちよりも、この通路の先に何があるのかに興味が移っていた。通路は長く続いていた。五十ヤールは歩いただろうか。脇道一つない石畳の道の先に、いきなり広い空間が現れた。そこは直径十ヤールほどの円形になっていた。一定間隔ごとに太い柱がぐるりと円状に並んでいる。しかしジグリットはそれよりも、そこが明るいことに眸を瞠った。柱についている松明はすべて燦然と炎を尖らせ、その空間が行き止まりであることを示していた。
――ここは一体、何をする部屋なんだ?
ジグリットが辺りを見回している時だった。
「おまえは王子。王子がおまえ」
濡れた黒い御影石の柱の間から、不気味な顔がひょっこり現れた。
誰もいないと思っていたジグリットは、あまりの驚きに思わず声が出そうだったが、なんとか押し止めた。
――だ、誰だ、この人。
城内で見かけたこともない顔だった。ジグリットは驚いた胸の内を隠すように、その人物を睨んだ。
「ようこそ、王子様。こんな所へ。黴臭くて湿ってて石畳は常に濡れてる、この寒くて冷たい場所へ。それとも、王子もこのジメジメした場所が骨身に合ってるのかい?」
ジグリットは答えなかった。ただ黙ってその気味の悪い老婆を見つめた。
「なぜ来たんだい?」
破れた黒い長衣の裾を踏みつけながら、老婆はまだ柱の陰からこちらを窺っている。
――下働きの端女か?
それにしても歳を取り過ぎているように思えた。老婆の不気味な言動に、ジグリットは心臓が激しく脈打つのを感じ、胸の衣嚢を探って筆記具を取り出した。すると老婆は眉間を寄せ嘆いた。
「ああ、そんなもんよしとくれ。板に書くなんて恐ろしい」
ジグリットは自分が話せないことを伝えるため、喉を指差した。
「ああ、口が利けないってのかい? ヒッヒッヒッ、話せないふりなんかお止め」目を見開いたジグリットに、老婆は重ねて薄笑いを浮かべる。「知っているのさ。何もかもね。おまえは話せる。口が利ける。黙っているだけさ。王宮は声が響きすぎる。それをおまえはよく理解している」
楽しそうににやっと笑った老婆に、ジグリットは表情一つ変えなかったが、内心はどうすべきか思案していた。声を出すことは簡単だが、この老婆を信じるのは難しい。
「ふん、話したくないのなら、勝手におし」
しばらく待ってもジグリットが何も言わないので、老婆はさっさと去って行こうとした。
「待ってくれ、あなたは誰?」思わずジグリットは言ってしまっていた。アンブロシアーナ以外の人と話すのは、不思議な感じがした。
「ほらほら、声が出た。知ってたよ、知ってたよ」老婆は振り返り、ジグリットの前で気味悪く笑みを浮かべ、踊るように足を交互に踏み鳴らした。
「答えて。なぜこんな所にいるんだ?」ジグリットの声は濡れた地下の御影石を叩き跳ね返り、谺した。
「あたしゃ道化師、城の害虫、城の影法師。そして何もかもを知っている」老婆は汚い袖の黒布で口元を隠すようにして、またにやりと笑った。「おまえのことを知っている。おまえは王子。そうだ、王子だ」
確信を持った道化の言葉にジグリットは首を振った。「ぼくは王子じゃない。ジグ、ジグリットだ」
しかし道化は聞こえなかったかのように、肩を上げてぼやいた。「こんな所に来てダメな王子だね、まったく」
「だから違うって言ってるだろ」反論したジグリットに道化は首を傾げた。
「違いなんて些細なものさ。同じ貌を持つ王子。心なぞ見えないものに縛られちゃダメだよ。知ってるだろう、歩哨はおまえを見間違える、侍従はおまえを追いかける、王子様王子様、と擦り寄ってくる」
「すぐに気づくさ」とジグリットは答えた。
「そうだそうだ、すぐに気づく、おまえが誰かってことをね。おまえが王子? 王子がおまえ? でもおまえは疑っている。王子はぼく? ぼくは王子?」
「何を言っている」
ジグリットはここへ来てようやく、この道化が気狂いなのではないかと疑い始めていた。しかし、道化師は喋るのをやめなかった。
「あんなヤツよりぼくの方が王子であるべき人間だ」道化がカパッと皺深い口を広げて叫ぶ。
「やめろっ」
「あんなヤツよりぼくの方が王子であるにふさわしい」
「やめろっ!!」
「もしかしたら、ぼくが王子になれるかもしれない。王子はぼくだ、ぼくが王子だ」
「やめろよっ!!」
「フヒャヒャヒャヒャッ――――」盛大な莫迦笑いが響き渡ると、カッとなっていたジグリットを抑えるように、道化はいきなり冷めた声で告げた。「ご機嫌な王子、またお目にかかりましょう」
そしてずるずると長布を引き摺り、また御影石の間に消えていく。
「待てっ!」
しかし覗き込んだ柱の奥には、ただ冷たい壁が残っているだけだった。




