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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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 紫暁月(しぎょうづき)も終わる頃、ジグリット達は帰国の準備に追われるようになっていた。来た時は十台の馬車だったが、帰りはさらに増え十五台の屋根付き馬車と、兵士が七十人。アルケナシュで働き口を捜していた傭兵(ようへい)を、炎帝騎士団の騎士長グーヴァーが正式に雇ったからだ。膨れ上がった人数と、タザリアへ持ち帰る土産(みやげ)、それらと共にまた山越えをする事を誰もが憂鬱(ゆううつ)に感じていた。

 ジグリットはアンブロシアーナと数日前から会えなくなっていた。「また明日」と言った彼女だったが、次の日、彼女はいくら待っても果樹園にやって来なかった。それどころか、その次の日も、そのまた次の日も、アンブロシアーナとは会えなかった。

 このままでは、会えずにフランチェサイズを()つことになるかもしれない。ジグリットは気が(ふさ)ぐ思いだった。そして彼女に会えなくなったせいで、ジグリットはようやく彼女を深く想っていることに気付いた。少女神に恋をするなど、誰が聞いても愚かだと言うだろう。それどころか、神聖なる(しゅ)の御使いを(けが)す行為だと(ののし)るだろう。ジグリットは、それでも彼女に会いたくて堪らなかった。

 それにジグリットを憂鬱にしているのは、その事だけではなかった。リネアもだ。ここのところ、リネアはジグリットにいつも以上に厳しく当たっていた。食事を抜かれたり、物を投げつけられたりするぐらいなら、どうってことはないが、孤児であることを執拗に揶揄(やゆ)されると、さすがにジグリットもアンブロシアーナとの身分差を思い、切なくなった。

 議会で疲れて帰ってきた後、リネアはジューヌの寝室で彼のお守りをしているジグリットを見つけると、見境なく苛立ちをぶつけた。

「どこの国でも貧民窟(スラム)の問題を抱えているんですって。本当に(うと)ましいわよね。盗みや躰を売ることを正当な仕事だと思っているんだから、人間の姿をした(うじ)虫みたいだわ」

 ジグリットは反論したくともできなかった。リネアは彼が黒板を取り出すと、白墨(チョーク)をすべて折ってしまうのだ。

 そして彼が食事をしていると、リネアはその(スプーン)を横から奪い、「どうせ昔は手で食べていたんでしょう。いいのよ、孤児はみんなしていることですものね」と笑いながらジグリットの食器をこれからはすべて床に並べるようアウラに言ったりもした。

 まるでリネアは、ジグリットに孤児であることや盗みをしていたことを一時たりとも忘れさせたくないかのようだった。



 紫暁月90日。いよいよ明日はタザリアへ発つ日、ジグリットは一人、また修道院の奥へ向かった。アンブロシアーナはいないだろうが、それでもその場所で、彼女の隠れていた杏の樹の下で、この国に別れを告げたかった。

 紫暁月も終わりになると、杏は実をつけ、重い枝を(しな)らせていた。樹上に少女の姿はなく、ジグリットは芝生の上で、ぼんやりしていた。その時だった。

「ジーグリットッ!」と木々の間から声がかかった。その声にジグリットはすぐに立ち上がり、少女の姿を捜した。

 アンブロシアーナは杏の幹の後ろから、ひょこっと顔を出してジグリットを見つめていた。

「久しぶり」と彼女が笑うと、ジグリットは胸が締め付けられる思いがした。

「・・・・・・うん、久しぶり」そう答えるのがやっとだった。

 アンブロシアーナは幹の裏から出てきて、ジグリットと向かい合った。

「ごめんなさい。ずっと会いに来れなくて」

「ううん、いいんだ」ジグリットは嘘をついた。

「本当にごめんね。ここに来てる事、侍女にバレちゃって・・・・・・それで、」アンブロシアーナは眸を伏せて、口篭(くちご)もった。「しばらく監視が付いてたから、どこにも行けなかったの」

「じゃあ、今日は大丈夫なの?」彼女がすぐに帰ってしまうんじゃないかとジグリットは恐れた。しかし、アンブロシアーナは頷いた。

「大丈夫よ。ジグリット、明日帰国するんでしょう。侍女もそれを知ってるから、外に出してくれたの」

 きっと彼女の侍女は優しい人なんだろう、とジグリットは思った。そしてアンブロシアーナのためにも、それを嬉しく感じた。二人は木陰に座って、話をした。明日の事についてはあまり話さず、数日の間にあった他愛もない事を話題にした。それでもジグリットの心は寂しさと悲しさで、笑顔を作るのでさえ苦労した。このままフランチェサイズに残ろうかとも考えたが、無論そんなことができるはずもなかった。それにリネアが言った無情な言葉が、ジグリットには細かい(とげ)のように突き刺さっていた。

 ――産まれも知れない孤児。

 ――エスタークの盗人。

 ――所詮は、王子の身代わりで死ぬ運命。

 そんな自分と主の妻である彼女が、ずっと一緒にいられるわけがない。

 (はかな)い夢は、終わりも早いのだとジグリットは知った。別れ際、アンブロシアーナは「また会いましょう」と微笑(わら)った。しかし、その約束が果たされる事はもうないと、ジグリットは感じていた。

 紫暁月91日。一行は再び、タザリアへ向けて出発した。長い列は、来た時よりも長い時間をかけて、チョザへと帰還することになった。季節はあっという間に蛍藍月(けいらんづき)の半ばになり、照りつける強い陽射しは、ジグリットを打ちのめした。

 アンブロシアーナとの別れに精神的に参っていたジグリットは、その旅初めて、体調を崩し、屋根付き馬車の世話になった。しかもリネアと同じ馬車だった。侍女に額の布巾(ふきん)を替えてもらうジグリットを、リネアは嫌味一つ言わず、黙って見ていた。熱が出て朦朧(もうろう)としているジグリットは、リネアが自分の額に冷たい手のひらを当て、心配そうに見下ろしているという不気味な夢を見た。

 そして彼らがタザリアの王都チョザの王宮へと入る頃、ウァッリス公国には新たな議会が誕生し、ゲルシュタイン帝国では一番下の幼い皇子が暗殺された。刻々と時代は変貌していた。


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