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「本当言うと、何度か逃げ出してやろうかと思ったぐらいよ」アンブロシアーナは杏の樹の下で口を尖らせた。
「でも、これが三度目なんだろう?」ジグリットはもう容易く声を出すことができるようになっていた。
「そうよ。だから逃げたかったの。わかる? 円形劇場の舞台に立ったわたしを、ぐるりと周りを取り囲んだ観客が上から見下ろしてる。それも興味津々で」アンブロシアーナは、舞台に立った時のことを思い出して両手を広げた。「その中で、腰やら腕やら脚やら振って、踊りながら、歌って歌って! しかも笑顔で! 華麗に!」彼女は大げさなほど躰を振って見せた。そしてがっくりと肩を落とした。「そんなの無理に決まってるじゃない! いい加減にして欲しいわ、まったく」
彼女は今、繁栄の儀の時のことを話していたのだ。ジグリットは宥めるように言った。
「でもすごく綺麗だったよ。花びらが降り注いで、まるで精霊のようだって、みんな褒めてた」
それは本当だ。アンブロシアーナは、この世の者とは思えないほど、清らかで美しい存在だった。それは今も変わらない、とジグリットは心の中で呟いた。
「・・・・・・みんな、ね」不服そうに彼女は項垂れる。
「次は四年後か。そのときを楽しみにしてるよ」
ジグリットが言うと、アンブロシアーナは困ったように微笑んだ。
「ありがとう。でも、四年後には踊るのはわたしじゃない、別の人になってると思うけど」
「どうして?」
「少女神は平均寿命が短いから、そんなに長く主にお仕えできないの」
「でも四年後なら、まだ君十八歳だろ?」
彼女はにっこり笑っただけで、返答しなかった。木々の間から差し込んだ陽に、ちらちらと堀を流れる水面が反射していた。アンブロシアーナは立ち上がり、軽く膝についた葉を払う。彼女の巻きスカートから仄かに草の香りがした。
「もう行かなきゃ。そろそろ侍女たちが探しに来るわ」
ジグリットも重い腰を上げ、彼女がしたように草の葉を幾つか払い落とした。
「そうだね、ぼくも誰かに見つかると困るし」
「ふふ、じゃあこれは秘密の会合だったってわけ?」
「会合?」ジグリットはその言葉にもっと適当な単語をあてられるはずだと首をひねった。
アンブロシアーナが明るい声で笑った。
「じゃあ逢い引き? デート? それとも、」
「いいよいいよ、会合だ。会合」
降参するかのように諸手を挙げると、彼女はさらに顔を綻ばせた。
「あら、デートの方が素敵なのに。それとも、ジグリットにはもうそういう相手がいるのかしら?」
「いないよ。知ってるだろ!?」
「知らないわ」彼女は興味があるのか、ないのか、判り難い表情だった。「また明日ね」と笑う。
「もちろん」ジグリットがそう答えると、アンブロシアーナは微笑したまま、掠め取るような素早さで、彼の右頬にキスをした。そして、すぐに駆け出して行く。
一度だけ振り返り、手を挙げた彼女に、ジグリットは真っ赤になった顔を隠すように、ぐっと頬に力を入れてアンブロシアーナを見送った。彼の胸ははちきれんばかりに高鳴っていた。
リネアが疲れて自室に戻ると、その日は侍女のアウラが彼女を待っていた。先にジューヌの部屋に寄って来たが、あれからジグリットはどこかへ出かけても、リネアにバレないようにか、夕暮れには部屋に居るようになっていた。
アウラを置いて、リネアは先にきつく縛った頭頂部の髪留めを外し、長い錆色の髪を解いた。すぐにアウラが寄って来て、彼女の髪に櫛を通す。リネアは躰の力が抜けるのを感じた。今すぐ寝台で眠りたかった。眸を閉じれば、睡魔は即座に彼女を襲っただろう。だが、そうはできなかった。
「それで、ジグリットはどこへ出かけているの?」
リネアの低い声は、アウラにもその心労が大きいことを窺わせた。
「はい、一日付きっきりで張っていましたら、修道院に入って行くのを目撃しました」
「修道院?」
リネアの知る限り、ジグリットがバスカニオン教に興味があったとは思えない。しかし、アウラはそうではないと続きを述べた。
「彼は果樹園の中で、ある人物と逢っていました」
リネアの眸に暗い光が宿り、彼女は立ち上がった。
「誰と会っていたの?」
それが誰でも、ジグリットと親しくしているなら、完膚なきまでに叩き潰してやるわ、と彼女は思った。
しかし、アウラの返答はリネアを愕然とさせた。
「それが、どうやら少女神様のようなんです」アウラも驚いたといった様子で「一体どうなっているのか」と漏らした。
リネアの脳裏に、すぐさま少女神アンブロシアーナの姿が浮かんだ。黄金色の髪に、白い肌、そして清廉なその表情。
「あり得ない」とリネアは口に出していた。少女神は主の妻だとされている。男と果樹園で逢い引きしているなど、在ってはならないことだ。
――しかもその相手が、あのジグリットだなんて・・・・・・。
「本当にアンブロシアーナなの? 見間違いじゃなく?」
アウラははっきりと答えた。
「はい、それは間違いありません。遠目から眺めていましたが、彼女が大聖堂に戻る時にすれ違いましたから」
リネアの眉間に深い皺が寄り、ギリッと歯軋りの音が響いた。アウラは恐怖を感じながらも、続けて言った。
「それでリネア様、見ていた限り、ジグリットとアンブロシアーナ様は、黒板を使わずに会話していたようなのです」
「・・・・・・そう」
リネアにとって、そんな事はもうどうでもよかった。二人が黒板で会話しようと、木の葉に針で穴を開けて会話しようと、手話を使おうと。問題なのは、ジグリットが少女神と会っているという事なのだ。
――どこで知り合ったの?
――何を話していたの?
――二人は・・・・・・二人は、どういう関係なの?
考えれば考えるほど、リネアは苦い猜疑心でいっぱいになっていた。
――神に仕える身でありながら、他国の少年に現を抜かすなんて、とんだ売女だわ。
――いっそ殺してしまいたいけど。
さすがにそれは無理だとリネアもわかっていた。少女神は、聖なる存在だ。バスカニオン教など、愚にもつかない老人の戯言から始まったものだろうが、彼女は別だ。少女神の持つ神の力が本物だということは、リネアも聞き及んでいた。父王のクレイトスが、何度もバスカニオン教の誕生祭で目撃している。その凄まじい人間あらざる力を。
黙ってしまったリネアに、侍女のアウラは顔色を窺うように声をかけず待っていた。やがて、リネアは落ち着いた声で言った。
「少女神の侍女に、彼女を何度か果樹園で見かけたと漏らしなさい。わたしの名が出ることはないようにするのよ」
「・・・・・・わかりました」
アウラが去ると、リネアはぐったりと椅子に身を投げ出した。
――早くこんな所から帰りたい。
まだ帰国の日まで、十日も残っていた。それはまるで、死の宣告のように彼女には思えた。チョザの退屈な王宮が懐かしく、邪魔の入らないソレシ城の中で、マネスラーの莫迦莫迦しい授業をジグリットの横で聞いていた日々が、随分昔の事のように感じられた。
――ジグリットも、身のほどを弁えるって事をもっと思い知るべきね。
少女神に惹かれても、彼らの人生が交じり合うことは、もう二度とないだろう。邪魔などしなくとも、勝手に崩れる関係なのだ。アンブロシアーナだって本気じゃないに決まっている。しかしそうは思っても、なぜかリネアは落ち着かない気分だった。




