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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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            2


 下層民の住む地区の中でも、際立って狭い隘路(あいろ)を彼女は通っていた。

 夜の路地は昼間とうって変わって暗く妖しげな雰囲気を纏い、少女が一人歩きするには、怖れを感じずにはいられない不気味さがあったが、ナターシは平気だった。エスタークの西広場へ向かう裏通りを彼女は一人とぼとぼと歩いていた。

 ナターシはジグリットが家を出た後、二人の幼い少年達を一台のギシギシいう古い寝台(ベッド)に寝かしつけ、以前に彼女自身が露天の店先でくすねてきた、元は白かった黄ばんだ腰巻きの前掛け(エプロン)を外すと、肌と同じ色の暴れる褐色の髪を水で押さえつけ家を出た。

 貧民窟(スラム)の住人の半分ほどは、どん底の生活をしていても、それなりに働いている者が多く、彼らはその最低の賃金のために、夜が更けると西広場へとぞろぞろ出かけ始める。

 ナターシも最初はその群れに混じり、見知った幾人かの化粧の濃い女達と歩いていたが、やがて路地へ入り、しばらくすると一人きりになった。

 彼女は夜の闇を怖いと思ったことがなかった。なぜなら、誰も彼女に闇に潜む者の話をしなかったし、魔物や死者の話すら彼女は聞いたことがなかった。だから、ナターシが路地の暗い角を曲がり、そこに人影を見たとき、彼女はただ立ち止まり叫ぶこともなく、目を眇めてよく見ようとした。

 しかし、突然現れたナターシの小さな影に、相手はぎょっとして驚きの声をあげた。

「おおっ、子供か」と男は野太い声で叫んだ。

 ――そんな大声で話すと危険だわ。

 ナターシは眉をひそめ、頭上を見上げた。路地の左右にある窓は明かりが消え、その場所さえ明瞭としない。

 細い路地では、騒ぐのはご法度だ。下層民の住宅街といっても、彼らのうち半数以上はナターシ達と違って、昼に起き夜に寝る生活をしている。だから夜に路地で騒ぐと、窓から汚水をぶっかけられる恐れがあった。

 ――この人はきっとこの街の人じゃないか、もしくは東側に住む上流貴族なんだわ。

 彼女はガス灯すらない、塗りつぶされたような黒い闇の中で、男をもっとよく見ようとした。

「いやいや、すまない。どうやら道に迷ってしまったようでね、悪いが広場へ行くのがどの道か、教えてくれるとありがたいのだが」

 男はナターシに近づいて来た。彼女はどうすべきかちょっと逡巡した。

 ――逃げた方がいいかしら。

 もしジグリットなら、恐い顔で逃げろって言うわね、とナターシは苦笑いを浮かべたが、結局、近寄る男に対し無防備に突っ立っていた。

 男は近づくと、初めて気づいたように言った。

「なんだ、女の子じゃないか。こんな時間に暗い道を歩いていると危ないぞ」

「危なくなんかないわ」とナターシはすぐに言い返した。「それに、危ない目にあっているのは、あなたの方でしょ。道に迷ったりして」

 男は驚いたように身を引き、陰影の中で角張った顎を指でぞりぞりと擦った。

「なるほど、それもそうだ」

 今ではナターシは、その男がナフタバンナとの国境から戻ってきたチョザの帰還兵であることに気づいていた。しかし、男がさらに近づくと、彼女の目は徐々に見開いていった。

 男は暗闇でも色がわかるほど鮮やかな真紅の外衣(マント)を纏い、足先まで同じ鍛造と思われる見事な銀の鎧で覆われていた。剣帯には黄金の長剣が下がり、今すぐにでも戦うことができそうだった。

 ――この人は騎士様だわ。

 ナターシは初めて見る本物の騎士の姿に感銘し、ぼんやり見惚れた。

「それで君、広場への道を知ってるか?」

 騎士は優しく訊ねた。もちろん、ナターシはその魅力に抗うことができなかった。彼女はコクコクと人形のように何度も頷いた。

「そうかい、よかった。ついでに君を家まで送って行ってあげよう」

 しかし、騎士の何気ない一言は、ナターシを夢見ごこちから解放するのに充分だった。彼女は騎士の言う家を思い出し、どんよりした気分になった。

「いえ、広場までご案内致します。家へは自分で帰れます、騎士様」

 なんとかそう言うのがやっとだった。ナターシは今が夜で、ここに街灯がなくて本当に良かったと思った。もしガス灯のほんの少しの明かりでもあったなら、騎士は彼女にこんなに優しく声をかけなかっただろう。自分の姿は彼に比べ、ぼろ布を巻いているようなものだ、とナターシは悲しくなった。

 二人は連れ立って広場へと歩き出した。しかし、もうナターシは浮き立つような気分にはならなかった。きっと一生ならないわ、と彼女は思った。

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