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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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          4


 繁栄の儀(プロスフェストゥム)が終わったからと言って、すぐにタザリアへ帰国できるわけではなかった。リネアは相変わらず他国の特使と友好な関係を築くため、議会や会合に出席していた。ジューヌは侍女のヤーヤと部屋に()もり切り。ジグリットが紫暁月の陽気にあてられて、こっそり外出しても、誰も気付くことはなかった。彼は星供(ほしく)の城を抜け出し、薄墨色の外衣(マント)頭巾(フード)で姿を隠し、フランチェサイズの街中を歩き回るようになっていた。

 そんなある日、大聖堂の裏の修道院に入り込んだジグリットは、墓地兼、果樹園(かじゅえん)となっている場所を見つけた。

 ――ここなら時間を(つぶ)すのにちょうどいいぞ。

 午後の穏やかな陽射しは、(あんず)の木々の隙間を()って、緑の芝生(しばふ)(まだら)模様を作っている。ジグリットがそこで寝転がったとしても、何らおかしくはなかった。

 修道院は学校や修練所だけでなく、家畜の小屋や穀倉(こくそう)療養(りょうよう)所など色々な施設が含まれていた。人の出入りは激しかったので、ジグリットが潜り込んでも、誰も気にとめる者はいなかったのだ。それに果樹園は修道院の一番奥にあったので、誰もそこまでは入り込まなかった事も幸運だった。

 ジグリットは青々とした芝生に座り、しばらく考え事をした後、ごろりと横になった。その時だった。真上の杏の枝がわっさわっさと上下に揺れた。眸を瞠ると、木の上に誰かが座っていた。卵色の布が枝から大量に垂れている。直後、その布が一つの大きな(かたまり)となって落ちてくると、ジグリットは避けるに避けれきれず、無残に下敷きとなった。胸の上にどしんと衝撃が走る。

「うわぁ、ごめんなさい」布の塊がそう言った。

 ジグリットは顔に被さった大きな卵色の布を払いながら、声の(ぬし)を捜した。すると、柔らかい布を抱え上げて、丸い琥珀色(こはくいろ)の瞳が見下ろしていた。

「本当にごめんなさいね」彼女は再び言った。

 今度はジグリットもそれが誰なのか、はっきりとわかって、呼吸が止まりそうなほど驚いた。もう重いとも感じなかった。ただ、そのショックでジグリットは平衡感覚が失われて、立っているのか寝ているのか、それとも座っているのかさえわからなくなってしまった。

 自分の前にいるのは、つい先日、円形劇場(アリーナ)で遠目から見ていたはずの少女だ。

 長い金糸のような髪がジグリットの胸に降り注ぎ、頭上から貫く太陽の光りに燦々(さんさん)と輝いていた。(しゅ)、バスカニオンが天から使わせた少女だとジグリットは心底、信じ込めた。それほど彼女は美しかった。

 もし少女が本当に神の御使いなら、自分はどうすればいいのだろう。ジグリットは眉をひそめた。懺悔(ざんげ)すべきことが山のようにあった。しかし、その懺悔を告げる機会は与えられなかった。少女は大きな瞳を何度か(まばた)かせて、桜色の唇を開き、人間の言葉を話した。

「ごめんね、大丈夫だった? 怪我はない?」彼女はジグリットの上から退くと、彼の手を引いて起き上がらせた。

「あら、あなたタザリアの王子様じゃないの?」不思議そうに問い返されて、ジグリットは瞬時に青褪(あおざ)めた。

 ――しまった!

 起き上がった拍子(ひょうし)に、ジグリットの頭巾が外れてしまっていたのだ。しかも少女神は、ジューヌの顔を知っていたらしい。

 ――ジューヌのふりをして、ここから逃げた方がいいな。

 しかしジグリットは、すぐには言葉を発することができなかった。長い間、声を出さずにいた彼の(のど)は、見えない壁に塞がれたように、空気を通しても(うめ)くことすらままならなかったのだ。絶対絶命だ。

「ええっと・・・・・・答えられないってことは」少女は考え込んだように、首を傾げた。「やっぱりそうなのかしら?」

 ジグリットは無言で、眸の前の少女と見つめ合った。危険な状況だが、やはり少女の美しさと優しげな眼差しはジグリットを惹き付けて離さなかった。

 少女は言った。「タザリアの王子様には、親でさえ見間違うほどにそっくりな影武者がいるって(うわさ)があるのよ。その影武者の少年はね、話すことができないんですって」

 そのまま走って逃げ去ることもできたが、ジグリットは彼女の話を聞いて、完全にその気を失った。そんな噂が流れているなら、もし逃げたりすれば、肯定するだけで何の問題の解決にもならないだろう。それに、何より彼女と話をしてみたかった。いや、どちらかと言うと、その理由の方が大きかった。この神の御使いである少女と話ができるなら、正体がバレることなど恐るるに足らないことに思えたのだ。

 ――でも、もう随分(ずいぶん)声を出したことがないから、無理かもしれないな。

 そう思いながらも、ジグリットはおよそ四年ぶりに、自らの意思で声を出そうとした。それには時間と労力がかかったが、じっと見つめる少女は時間を気にしなかった。数分後、ジグリットは息と共に喉の奥を何か重いものが通過するのがわかった。

「ぼくあ゛・・・・・・」

 それはしゃがれた(みじ)めな声だった。鈴のように可憐(かれん)な声の少女に話し掛けるには、あまりにも非礼で愚かな振る舞いであり、恥ずかしさにジグリットは赤面した。今すぐにでもなかったことにして消えてしまいたかった。

 だが、それと同時に声が出たことに驚いてもいた。どんな音声であれ、本当の(おし)になってしまったわけではないことを自分で証明したのだ。それは泣きたくなるほどの喜びを(ともな)っていた。

 四年もの間、喉を締め付けていた堅固(けんご)(ひも)が解き放たれたように、ジグリットは躰中の細胞が波打ち、自由と開放に浸っているのを感じた。

「あら、噂と違うのね。声は出るけど、すごい声だわ」少女はジグリットの横で、朝顔状に広がったスカートの裾を掴んで立ち上がった。「名前はなんて言うの? わたしはアンブロシアーナ」

 彼女はジグリットほど彼の声を気にしていないようで、ただその眸には興味の色が(うかがえ)えた。

「ジグリ゛ッド」ジグリットは割れた声でなんとか告げた。彼はまだ喉を通る言葉に歓喜し、全身を震わせていた。

「ジグリッド?」

 どうせ今さらジューヌだと名乗っても、彼女は信じないだろう。それに、神の御使いである少女神に嘘をつきたくはなかった。フランチェサイズへやって来るまでバスカニオン教など、信じたこともなかったが、繁栄の儀を終えた今、ジグリットはその神聖さと崇高(すうこう)な雰囲気に信じるに(あたい)する厳粛(げんしゅく)な存在を感じていた。ジグリットは黒板を取り出して、少女の前で自分の名を書いた。少女神、アンブロシアーナは手元を覗き込み、それを読んだ。

「ジグリット」

 ジグリットの胸がその声に、またどくんと動悸(どうき)を打つ。(はげ)しい胸の鼓動が彼女に聴こえてしまうんじゃないかとジグリットは恐れた。しかしアンブロシアーナは、間近の杏の(みき)(もた)れて、じっとジグリットを見やり訊ねた。

「あなたはタザリアの人なのでしょう?」ジグリットが頷くと、アンブロシアーナはさらに言った。「わたしはレイモーン出身なのよ。もうずっと何年も帰っていないけど」

 ジグリットが黒板に[そうなんだ。ここへ来る途中、通って来たよ]と書くと、アンブロシアーナは首を振った。

「本当は喋れるんでしょう。どうして、話せないふりをしているの? あなたの声、本当はとても心地良いんだと思うわ」

 それは彼女の方だ、とジグリットは思った。黒板に返事を書こうとすると、アンブロシアーナがジグリットの手を掴んだ。そのぬくもりと柔らかな感触にジグリットは息を詰めた。

「口で答えて。時間がかかってもいいから。きっとあなた、練習さえすれば、また普通に話せるようになるわ」

 アンブロシアーナの手がジグリットからそっと離れる。手の甲に残った感覚に、ジグリットは顔を赤らめた。そして、ゆっくりと口を動かし言った。

「・・・・・・じゃあ・・・・・・、れんじゅう・・・・・・しで、みる」

 アンブロシアーナは優しく破顔した。「ええ」と彼女が微笑むと、ジグリットは片時も眸を離すことができず、金の髪が木漏れ日に照り、彼女の全身から光を発しているように見えた。


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